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●大連港口(大連)
大連港は延長一萬三千餘尺の防波堤を以て東西北三方を圍み、港内九十四萬坪の海面に三本のピーアが出て居る、その延長一萬二千六百三十尺、一時に十五萬噸の汽船が繫留され、年額約四百五十萬噸の貨物を吞吐する。滿蒙の玄關たるに恥づかしくない。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●定期船々客上陸(大連)
内地からの定期船が到着して、乗客の上陸する光景である。左側に見江る建物は乗船客の待合室で、内外の設備装飾、共に東洋に其の比を見ざる立派なもので乗降客はベランダーより突出してゐる加働式乗降梯によつて乗降する。 (印畫の複製を嚴禁す)
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◆蒙古の沙丘
汽車に別れてから幾日の旅寢、蒲鉾馬車に委せた體と魂とは、蒙古の原始生活を憧れて此の方大興安嶺へと急ぐ。開魯から札魯特旗領への途中茫々たる黃沙の平原にさながらの巨濤の如く蜒蜿として隆起して居るものは所謂沙丘である。七月の太陽は赫灼として地の底にまで照りつけて居る、熱砂は百何十度の高溫を示し蠟燭は溶け燐寸は自然發火をするといふ狀態、人も馬も正に昏倒せんとする中を路案内の蒙古人は騎馬で此の焦熱地帶を悠々突破する。 (印畫の複製を嚴禁す)
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◆蒙古美人(蒙古)
某王の内室で、濶額豊頰の間に眉目の愛くるしさを湛へたる正に母性の典型的表情を有して居る。頭髪、服裝共に滿蒙婦人の風俗であるが、爰に漢蒙兩種族の服裝の相異は、漢族の女性はスカートを用ゐるに不拘、滿蒙婦人は男子と同一の大掛兒[ターコール]を着し決して袴を穿かない處に特徴がある。 (印畫の複製を嚴禁す)
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◆放牧(蒙古)
蒙古人の生活は牧畜を基本とする、彼等が人生に於て天地間唯一の伴侶はその家畜である。彼等が日常の挨拶にも先づ以て家畜の近況、牧草の有無を尋ねてから後用談に移るのが禮だ。而して彼等の最も怖るゝものは旱魃と大雪である。旱魃は水脈を絶ち、大雪は牧草を雪中深く埋め隱して了ふ。それがため家畜は飢え甚だしき時はその大半を凍死せしめることがある。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●牛糞の貯藏(蒙古)
蒙古人の牛糞の利用は之れを燃料とするばかりでなく往々塗料にも用ゐる。囤積したる此牛糞は彼等が冬季を經過するためには如何に貴重な燃料であるか想像の外である。蓋し蒙古人は草を刈る勞を牛を以て代用せしめ、牛がその榮養を生草に依つて受け、而して排泄したその不用物は燃料として利用するといふ自然と人間の生活に於ける交互作用が少しの無駄もなしに遺憾なく實現されて居る。 (印畫の複製を嚴禁す)
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◆蒙古包の裝飾(蒙古)
某王府の蒙古包の外觀を黃、鰕茶、黑などの毛氈を以て被覆して裝飾をした光景だ。之れは主に冠婚葬祭の儀式をする場合に行はれ内部には王座もあり、卓子其他の調度などそれ(ぞれ)に立派なものが用ゐられてる。 (印畫の複製を嚴禁す)
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◆井戸(蒙古)
蒙古の井戸は生ける凡在ゆるものゝ生命である。偶然に見出されたる一瀦の水源は何百年の昔から地下の水脈に依つて搬ばれた此の無水の世界への唯一の天惠であらねばならぬ。何處よりか持ち來たされけん一本の楡の巨材をくり拔いた水槽は牛馬羊の幾千と數へらるゝ家畜のために飲料水を供給されるものである。 (印畫の複製を嚴禁す)
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◆駱駝(風俗)
荒れ野路、胡砂吹く風に送られて、さして行方は白音太拉、駱駝鈴に日は暮れて、冷たき夢の蒙古旅。 (種板番號 八三)
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◆メーリン廟喇嘛の塔(蒙古)
開魯から一日半行程にしてメーリン廟の喇嘛部落につく、此の喇嘛廟は内蒙中にも有數なもので外觀結構共に壯觀である。廟前門内にある二基の喇嘛塔はその彫刻布彩裝飾の表現に於て頗る異觀を呈して居る。恐らく西藏直線のものであらう、五輪の頂上にある桃型の裝飾は日月を象徵したものだ。 (種板番號 三六七)
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◆沙漠の日の出(蒙古)
蒙古包の中に暫し假寢の夢さめた旅人達は、地上未だ夜の影の匍ふ間に、またしても沙漠の旅途を急ぐ。看よ、東方漠々たる沙原のかなた、黎明の空は芙蓉色に染め出されて日の出を待つ沙漠の空氣はプリズムの如く淸い。 (種板番號 三五八)
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●オボ(蒙古)
蒙古族にはそれ(ぞれ)の旗と呼稱する各蒙古王族、屬領地がある。その境界を劃する標基をオボと稱して居る。 駱駝の瘤とオボのコントラストが面白い。 (印畫の複製を嚴禁す)
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◆茂林廟本堂
境内一千の喇嘛僧を収容して居る。本廟の規模は頗る宏壯なものである。活佛を中心に昔は随分修道堅固にやつて居たものだが、近頃は風紀が頗る亂れて居るとの噂だ。(印畫の複製を嚴禁す)
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◆蒙古牛車(蒙古)
日本人には廣いといふ感じは海を見た時にのみ其最大限を意識する。然るに蒙古の平原に於て見る廣茫たる景色は眞に驚嘆すべきものがある。日は原から出でて原に入り、四方に擴がつた地平線内には一物の遮ぎるものがない。アノ草原に轍の跡を印し索り行く牛車は何處の部落をさすのであらう。 (印畫の複製を嚴禁す)
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◆砂丘の髑髏(蒙古)
蒙古人の葬式には大體三樣の風習がある。富者の階級に屬するものは火葬にして其骨を粉碎し麥粉と共に練り固めて之を靈場に納祭す。漢人の俗を模倣したものは屍を棺に納めて埋葬する。それから一般平民の間に行はるるものは屍を山頂又は谷底に運んで狼鷲の類の咬啄に委する風習がある、若し山野に放置したる屍にして三日を經ても尚野獸の咬啄なき時は、喇嘛僧を招じて讀經追弔をするさうだ。 (印畫の複製を嚴禁す)
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◆駱駝隊
陸上の船といはるる駱駝は蒙古でも矢張りその大曠原を旅行する時の船として重寶がられて居る、白音太來郊外暮れかゝつた雪の日に、あのトロントロンと鳴る頸の鈴音が聞江た時、何んとも言へない蒙古情緒に浸される (印畫の複製を嚴禁す)
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◆劒の舞(朝鮮)
妓生は朝鮮の歷史を語る花である。もと李朝時代官妓として養成されその幽艷にして古雅なる處は今尚市井の間にも殘されてゐる。そして平壤には妓生學校のある事は人も知る所寫眞は京城朝鮮ホテルの後庭に於ける官妓の劒の舞である。 (印畫の複製を嚴禁す)
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◆朝鮮の婦人(風俗)
頽廢の美、それは朝鮮婦人から感受する一つの印象だ。薄萠黃か或は水色がかつた裙長の裳を穿いて上半身白衣に包んだ彼の女の裝では、それ自身既にセンチメンタルな感じである。顔面の弛んだ筋肉に漂ふ微笑はむしろ凄艷ではないか。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●道士(風俗)
千山寺觀の一として普安觀がある。道士の修する處で樹梢に古鐘を懸垂して山嵐に響を傳ふる所など全く一部の活畫である。道敎は老子を祖述し神仙を加へて説明したもので結髪した頭上に道帽を冠り寛袍を纒ふて居る。霞を食し風を御して悠々自適自然生活をして居る。 (印畫の複製を嚴禁す)
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◆無量觀(千山)
千山は遼東第一の仙寰である。巨巖奇峯老松の間に連立してその景色雄大到る處寺觀の見るべきものが多い。その中無量觀は最も名高い。明の徐文華の詩に 雪煙廻合水潺溪。 路轉陂陀百折還。 上界鐘聲霄漢杳。 前山塔影夕陽間。 松濤漲壑千巖響。 花雨浮空滿地斑。 座久虛堂疑誤人。 恍然身出世人寰。 好く千山の景趣を寫し得て妙である。 (印畫の複製を嚴禁す)
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◆新萬物相(其一)
天下の絶景として賣出してゐる金剛山一萬二千衆峯中で然も金剛山を代表する景は萬物相だ、殊に新萬物相の景は正に天下一品。人間の發明した言葉や、寫眞では此の大自然の藝術は到底現はし得ない。金剛第一關と謂ふ石門を潜り辛うじて覗く、脚下幾千丈とも知れず鋭く削立してゐる力強い男性的の景だ。路の餘りに險岨なため舊萬物相丈けで大抵の人は引返すが、新萬物相を見ずに金剛山を語る資格はないのである。 (印畫の複製を嚴禁す)
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◆美しい庫底の港(金剛山)
白砂長汀-それは美しい海岸を表す為には附きものゝ言葉だが、往々いかものゝ白砂長汀がある。然し我が庫底海濱のそれは本當に純白だ。松の翠、碧玉の如く澄んだ日本海、年が年中洗ひに洗はれた眞砂には垢一つない…。純な景色だ。附近の藁屋根も四圍の景と調和して、えも云はれない美しい景色となつて眼底に入つて來る。 (印畫の複製を嚴禁す)
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◆九龍淵(金剛山)
溫井里から神溪寺、玉流洞、飛鳳瀑等の幽峽を過ぎ、二里餘町進んだ頃大地も碎けよと落下する一瀑がある。是れが山中第一の巨瀑で高さ百七十尺、日光華嚴の瀑に優るとは云はないが瀑上、瀑下一面一枚の磐石からなつて、夫れに穿たれた面積五十坪、水深四十尺の瀧壺の凄艷さは到底華嚴の夫れが及ぶべくもない、幽麗且つ神秘的のもだ。瀑壺の向つて左端に六尺豐の人夫を立たしたのだがボーフリの如くに哀れに小さく見える。五十三佛に追はれた九龍は瀑上の八潭と瀑下の龍壺とに住んでゐたのだと謂ふ。成程、龍でもゐさうな凄い光景である。 (種板番號 三五六)
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◆玉女峰山頂より見た彩霞峰の雄姿(金剛山)
奥萬物相の一部と觀音連峯及び彩霞峯の雄姿を望遠レンズによつて寫し出したものだ濃霧の推移につれて刻々變化して行く彩霞峯の雄姿は-嗚呼-何たる崇高な景であらう。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●高粱の刈入(風俗)
旅順に鶉の群が北風と共に飛んで來る頃にはソロ(ソロ)高粱の收穫が始まる。そして今迄靑かつた畦が次々と一望赫土の平原に立ち戻つて行く。 (種板番號 二三七)
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●高粱の脱穀(風俗)
十月高粱が刈穫られると農家の前庭に堆高く高粱の囤が出來る。而して農村には大抵共同作業場があつて其處で每日脱穀が始まる。驢馬は最も忠實なる農家の共勞者だ。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●千山龍泉寺(千山)
千山の寺廟中一番大きいものは龍泉寺と云ふ。寫眞は同寺の全景である。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●水稻の収穫(風俗)
滿洲にも近頃水田が出來て立派な米が穫れるやうになつた。最初支那人は水田を作る事を知らなかつたが、此の頃では盛んに耕作をやり出した。滿洲米の産額は昨今約七十萬石と謂はれて居る。 (印畫の複製を嚴禁す)
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◆満洲の娘(風俗)
娘十七八戀知る頃は美しい、前髪を厚く切下げて額を深くかくした下には、柔かい二つの瞳は何ものかの幻影を追ふて輝いて居る。水色の大掛兒の下に鴇色の褲子を穿いた彼の女の姿は、曠野に見出さるゝ一つの自然美であらねばならぬ。 (種板番號 三八六)
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●石臼を挽く驢馬(風俗)
支那の農家では家畜を色々な動力として利用することはなか(なか)巧みである。驢馬が口も眼も全く隱されて石臼の圍りを四六時中神妙に勞役に服して居るのは如何にも可憐である。農婦はあの小さい足を、チヨコ(チヨコ)させつつ驢馬を馭し乍ら高粱や蕎麥の粉を挽かせて居るのも美しいコントラストだ。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●冬の千山
夏の千山は十分に紹介されてゐるが、冬の千山は未だ神秘の仙境として氷雪の下に睡つてゐた。此の寫眞は千山三難險の一として知られてゐる羅漢洞から見た景色で豪宕淸明の氣、山嶺は容易に俗人を近寄らしめない感がある。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●冬の千山
千山の春、夏、秋、共にそれ(ぞれ)の趣きはあるが、雪に飾られた冬の千山の景とは比すべくもない。紺碧の空、無限に連なる白妙の遠山、魔の如に聳えてゐる暗黑色の巨峯、此の崇高無比な景に當面した自分は今更に造化の作る偉大な藝術に驚歎する他はなかつた。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●興安嶺の落葉松(北満)
零下四十度の寒さ、シャッターはもう利かない、雪は銀粉の如く大氣の中にちら(ちら)と降る中を、脚を沒する積雪を踏みつけて登つた、山中の樹上に體を括りつけて撮したのは此寫眞だ。お蔭で右手の指四本はトウ(トウ)凍傷にかゝつて了つた。 (印畫の複製はお斷りします)
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●雪中の樵作業(北満)
酷寒の四十七度の興安嶺森林中は壯嚴なる霜の花によつて飾られてゐる。此の山中に伐木作業をする光景を見たものではなくて勞働の眞の尊さは解らないのである。ペーチカの前に寢コロンで居る都會人の到底想像もつかない世界なのだ。 (印畫の複製はお斷りします)
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●興安嶺の樵夫(北満)
頭からツマ先迄毛皮を以て裝身した樵夫達の服裝は鳥渡遠目には人か獸か判然しない、鼻下の髯に呼氣が凍結して霜花をつけて居るのも奇觀だ、丸太小屋の光景も此人達には好い對象である。 (印畫の複製はお斷りします)
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●牛肉の斧割(北満)
牛肉の片塊は凍結して全く石塊の如く堅い、大なるものは鋸で挽きそれを俎上斧を以て割って之れを煮るのである。零下四十七度の寒さを體驗しないものには全く想像もつかない現象である。 (印畫の複製はお斷りします)
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●松花江の結氷(北満)
冬季哈爾賓の氣溫は零下三十度から三十四五度位に下降する、哈爾賓の生命とでも謂ふ松花江は、十一月から翌年四月迄全く結氷に封ぜられて一大氷原が出現し、兩岸の交通は陸上と異ならざる聯絡を保つに至るのである。 (印畫の複製はお斷りします)
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●松花江のサー二(北満)
驢馬に牽かせたサーニがチリン(チリン)と鈴を鳴らして銀盤のやうな氷上を滑つて行く、自動車は怪物のやうな警笛を鳴らして自然のトラツクを走驅する、今迄河一筋に依つて隔てられた兩岸には冬に應はしいローマンスが取り交付されるのであらう。 (印畫の複製はお斷りします)
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●大連港の凍結
大連の冬は十一月頃胡砂吹く風と共に先づ陸から來る、陸上の山も家も人も全く冬籠つて了つても海は未だ蕩漾として靑い水を湛えて冬の巨人と對抗して居るかに見えた。さうして居る間に一と度遽然として零下十幾度といふ大寒が來襲すると海上は一夜にして全面皸玻璃に敷きつめられる。而して凍つた此處彼處にもやつてゐた船は大銀盤上に配せられて美しい世界を展開する。 (印畫の複製はお斷りします)
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●南支那の戎克(大連)
戎克は如何にも古典的な船である、古い支那そのものゝ如く。戰争と戀と貿易とを載せて、蝙蝠の羽のやうにあの褐色の帆を擴げた姿を見るものは、マドロスの傳説の中に見出す怪異を思ひ起させるであらう。 殊に南方から來る戎克には船體の舳艫部を極彩色に装飾した美しいものがある、北方の港大連の海上に凍結した處は南方の美娘を生捕つた形である。 (印畫の複製はお斷りします)
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●木の都吉林
松花江上流で伐り出された巨木は、筏として流され、吉林の碼頭に集る、かくして吉林は正に木の都である。氷雪に埋れた江山の畔りにある町は淋しい。 (印畫の複製はお斷りします)
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●氷上の帆掛橇
結氷に封ぜられた遼河の奇觀は此の帆掛橇だ、氷上のヨツトとして冬の行樂に或は運搬に用ゐられて居る。 (印畫の複製はお斷りします)
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●興安嶺森林中の牧牛
放牧された牛群は海拔四千尺の興安嶺山林中酷寒にさらされて平氣に生棲してをる。此處の氣溫のレコードは零下四十七度ださうだ。 複寫を御斷り致します
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◆興安嶺の森林
興安嶺森林の伐採事業を經營して居るものに札免公司がある、其區域は約四國大の廣袤を包有してをるに依つてもほゞその事業を察することが出來る。此寫眞は落葉松林相の一部である。 複寫を御斷り致します
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◆酷寒中の杣作業
札免公司の作業場には山から伐出した木材をスレツパーに製材して居る、勞動者の耐寒には實に驚異に値するものがある。 複寫を御斷り致します
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◆穴居生活
地下數丈の穴を掘穿してそれに屋根をさしかけた上に土をかけて小山のやうにうづ高くする。之の上層に見ゆる小屋は空氣拔で土中から突立て居るのが煙突だ地下幾箇の室に分れて頗る保溫には適した住居だ。 複寫を御斷り致します
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◆雪の興安嶺
興安嶺は北滿森林中の最も大なるものである、此寫眞は大興安嶺の分水嶺海拔四千尺の一地點で、西北は朔北萬里の蒙古沙漠に連る。雪の興安嶺連峯である。 複寫を御斷り致します
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◆札免公司のスレツパー置場
四國大の廣袤を有する森林地帶から伐出さるゝ木材の量は實に無限である東支鐡道、滿鐡用のスレツパーは皆此處から供給される。 複寫を御斷り致します
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◆アイスホツケー
冬の戸外競戯の中あくまでも男性的の爽快さを覺へしむものはスケートである。そうしたスケート競戯の中のアイスホツケーは最近漸く上下人士の口に上つるやうになつたが、寫眞は哈爾賓に於けるそれである。 複寫を御斷り致します
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◆橇遊び(ハルビン)
坂道の如く勾配をつけたブリツチに雪路を作つて頂上から橇を滑らして遊ぶ。頗る痛快にして冬の遊びとしては隨一のものだ。 複寫を御斷り致します
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◆海凍る(大連)
不凍港と銘打つた大連も稀れに凍る事がある。潮の滿干と無心の風の戯れから氷塊は宛として南北兩極を髣髴たらしむる壯觀を呈し限りなく美しい。 複寫を御斷り致します
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◆氷上の荷役(大連)
朔風日に凛烈さを加へて行くに連れて、奥地特産の出廻りを誘發し、大連埠頭出入の船舶も次第に繁きを加へる頃、時として滯泊船を氷で閉ずことがる。そして平常ならば水深幾十尺の氷上に荷車利用の荷役が開始される。寫眞は濵町沖の荷役作業の光景である。 複寫を御斷り致します
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◆街頭のエピソード(北滿)
街の踏切りを越して追ひかけて來たロスの靑物屋のドビンスキイが、支那人の百姓を呼びかけてまたしても野菜の値段を値切つて居る。海拉爾は東支線中に於ける非常に豊富な野菜の生産地である。 (印畫の複製を嚴禁す)
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◆郊外の平和郷(北滿)
哈爾賓に行つた氣まぐれに、あの地の近郊をカメラをかついで徘ふたその折、郊外の田園にセツトルした波蘭人の一家庭を見出した。歐洲戰爭の際戰禍を蒙つて子供が日本に救濟されたといふ經驗の持主であつたので、圖らずも晝飯の御馳走に預かつた。何時の頃から來住したのか聞きもしなかつたが牛を飼ひ鷄を養つて卵や肉や野菜には事缺かぬ貧しいと雖平和な日を過して居る。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●苦力部落の一角(支那風俗)
苦力が每年春先山東から海を渡つて滿洲にやつて來る數は大連ばかりでも數萬に上る。彼等は船から上陸するや否や直ぐに勞働に從事する而して稍々土地に定着するやうになれば何處から集めて來たか知らぬが木材の端切れとアンペラと其處ら有り合せの泥で堀立小屋を作つて生活の根據とする。此の堀立小屋は常に或る集團をなして郊外の野ツ原や山懷に或は崖上などに時には一夜にして一部落を出現することがある。此寫眞は大連寺兒溝の海岸近き赫土の斷崖に出來たテイピカルな苦力部落である。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●鹽田潮汲用風車(産業)
關東州内は天日鹽産地として有數な地位にある。現在年産額三億斤の生産は將來猶發展の餘地がある。潮汲用風車は戎克の帆から思ひ付いた頗る巧妙な而も原始的な動力で、支那人の自然力の利用の巧い處が窺はれる。 (印畫の複製を嚴禁す)
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◆赤い哈爾賓ステーシヨン(北滿)
今は早や赤露の旗下に支配せらるゝ東支鐵道の中央ステーシヨンとしての哈爾賓は、日本に取つても伊藤公の死を懷想せしむる深い印象がある。歐亞兩民族の勢力が接衝交錯する國際地點たる哈爾賓の價値は兎に角として一度あの靑い光にボカされた夜のプブラツトホームに降り立つた旅人は、構内のあわたゞしい雜沓の彼方に聖像を祭るかすかなる蠟燭のゆらめきを目にしたとき云知れぬ旅情の寂しさを感ずるであらう。 (印畫の複製を嚴禁す)
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◆哈爾賓市街(北滿)
露西亞が五十年前極東に手を延ばして松花江畔の一地點を選定したとき、今の哈爾賓は唯だ蘆萩の中に見出された一個の渡航場に過ぎなかつた。然るに東支鐵道東西南各線の中央集合地點として、西歐文明の一大文化都市が碁年ならずして現顯し、何事にもニチオーの露西亞人氣質は、時代が白に變らうが赤にならうが音樂と酒と女の耽溺の世界を實現してゐる。 (印畫の複製を嚴禁す)
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◆寺兒溝苦力部落(大連)
景は時に景ならざる處に生る。東洋の文化都市を誇る大連市の東南端、寺兒溝の苦力部落も一度レンズを通ずれば、皮肉な文化の半面である其處の穢雜醜惡を變じて一畫繪となつて吾人の眼底に映じて來るのも妙である。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●娘々廟の祭典(大石橋)
娘々廟は趙公明の三妹雲宵と避宵と瓊宵を祭神としたもので農民の信奉者が多い。高粱の種子蒔は既に終つて赭土の曠原が千條の畦に依つて整へられて居る。遠景の若葉の森が初夏の風に光つて、四頭立の荷馬車は今日は盛裝した村の姑娘(クーニヤン)達を乗せて娘々廟へと運ぶ。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●大連市役所(大連)
大廣場を中心にして蛛網状の道路を經緯せしめてゐる大連の市街は、その大廣場の一角に市役所の堂々たる輪奐を置いて其道路の如き經緯繁鎖の市井凡百の事務に鞅掌せしめ、自治都市としての面目を誇つてゐる。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●大連小崗子(大連)
大連の支那街である隘路の曲折した處金看板の仰々しい色彩に先づ支那氣分が橫溢して居る。小崗子は十二萬の人口を抱擁した支那人街である。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●大廣場の夏(大連)
大連大廣場のローン、グラウンドは翠綠の毛氈のやうに初夏の光に輝いて居る。帽影傘色その間を縫うて行人の裝ひも輕やかに見える。そしてヤマトホテルのルーフガーデンにはオーゲストラが流れ、紅色の電光が輝き夏の夜を飾る唯一の納涼場を開展する。 (印畫の複製を嚴禁す)
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◆大連浪速町通り(大連)
大連市中の最も繁華な小賣商店區域で每夜街頭に夜店が立つて繁華を極める。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●大廣場の朝(大連)
大連市のセントラルサークルとして情調の源泉かのやうに、綠も爽かな草に木々に初夏のうるほひをたゝへ往き交ふ人の足どりもかろく、なごやかな幸福に充されて居る。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●戎克(大連)
幾百隻となく集つたジヤンクが、濡れ帆を乾かしてゐる光景である。油を流した樣な雨上りの朝、露西亞町沖は此等のジヤンクに依つて埋められてゐる (印畫の複製を嚴禁す)
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◆奉天四平街通り(奉天)
奉天四平街は東京の銀座に等しい繁華な街で支那式色彩の頗る濃厚な街である。 (印畫の複製を嚴禁す)
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◆北陵(奉天の史蹟)
北陵は昭陵とも稱し其の丘を隆業山と名づく。奉天城の北方里餘の所にあり。順治元年八月太宗文皇帝の靈柩を葬りたる所、其の規模宏壯にして松杉鬱々奉天唯一の淸涼地である。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●農事試驗場の放牧(産業)
公主嶺附屬地にある農事試驗場緬羊の放牧である。同試驗場は濠洲の緬羊メリノ-種を買入れ蒙古在來種に交配して其の改良と羊毛の自給を圖りつゝある。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●支那老人(風俗)
支那の百姓程平和の愛好者はあるまい、大車[ターチヤオ]の上に憩へる彼の姿の朴訥さよ、一服の臭ひ煙草によつて滿足を得る程の樂天家だ。その顔面の皺の一線にも傷はれざる人間味の愛と健康の表徵がある。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●奉天驛頭の乘物の集合(奉天)
滿洲の中央驛なる奉天驛に集る乘物の光景だ。露西亞式の幌馬車、英吉利風の箱馬車、日本式の人力、支那流のカマボコ馬車それに加ふるに自動車といふ對照、まだ飛行機のないのが惜しい。汽車の發著每に此等の交通機關が雲集霧消する有樣はもの凄い。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●鴨綠江の筏(安東)
鴨綠江ぶしで名高い筏船である。筏の上に小屋を造つて居るのも奇觀だ。筏ぶし歌ひ乍らに瀨を越せば谿の鶯つれて鳴く情景を家族と共に味ふことが出来來れば船頭の生活も幸福といふべしである。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●角山寺附近の展望(山海關)
最近の奉直戰に關ヶ原の如く爭覇場裡となつて激戰を交へた角山の一部には展望の雄を以て著名な角山寺がある、山嶺に立てば蕩漾たる渤海の碧波を天涯に懸け一連の石河は白帛となつて大地に迂曲する、左方脚下に薄く角形の影を作つて見ゆるものは即ち山海關城である。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●大磐石の家(山海關玄陽洞)
大陸の民衆には何處かにユーモレスクな性格が密んでゐる、一大岩石の空隙を利用して岩窟とは全然趣きを異にした家居を營なんでゐる、其處には巖肅なるべき生活に何かしらの暗示を投げずには居ない。然も山海關玄陽洞附近に見出した這した大磐石の家にも、奉直戰の影響はあつて一物も殘さず剝奪されて荒れ果てたまゝとなつてゐるに至つては、尚更に皮肉である。 (印畫の複製を嚴禁す)
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◆曠原の悲劇(北滿)
東支西部海拉爾の郊外の墓地を見出した時自分は無量の感慨に熱い涙の落つるのを禁じ得なかつた滿蒙の第一線上の末端に位する此曠原の一角に埋めた同胞の靈は何にをか吾々に語る?。 (印畫の複製を嚴禁す)
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◇呼倫貝爾原頭の放牧
東支鐵道西部線が興安嶺を越えて外蒙古地帶に差しかかると呼倫貝爾[コロンバイル]の曠原である。一望千里といふ文字通りの平原に牛群の大集團が放牧されて居るのを見るが、之れは附近の部落から各農家の飼養する二頭三頭の牛を集めて日々に野外に放牧するもので、共通の監視者としての若き牧夫に委託されるのである。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●遼河の流氷
結氷期節の滿洲も二月の節分あたりから何處となく春めいた氣分が動き出す。今まで鐵板のやうに張りつめた遼河の堅水が春の心にゆるめられて一夜恐ろしい爆音を立てゝ炸裂した氷は、不整形の大塊小塊の集積をして上流から押し流して來る有樣は物凄い光景だ。兩岸の船人は春の水を見て狂氣のやうになつて河心に乘り出してゆく。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●蘇る遼河の春
河を生命とする船人等は、半歳の長き結氷期に閉ぢ込められて來ん春を待ち侘びた。死せるが如き冬枯の世界にも大江の水は氷の下に流れて居たのだ。春は地の底より湧く?めぐる期節のおだまきに春は先づ河水を温めて溫めてあの堅氷の覆を取り除かうとする。解氷の日の河を見たものはさながらの自然の戰ひを感ずるであろう。それは擾亂と激動と爆發と凄愴な光景である。冬眠から目醒めた營口の市街は河岸のかなたに春の光に輝く。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●豆粕荷卸作業
油房から埠頭構内に搬入された、その豆粕の積卸作業は一種の技術を要する。彼の豆粕を最も敏速に完全に貨車から卸すには普通二枚づゝ取扱ふのが原則とされて居る。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●特産物の野積(大連)
大連埠頭構内の露天に於ける貨物收容は多い時は五十萬噸からに上る、奥地から南下する特産の出廻最盛季には寫眞のやうな光景を呈する、而して野積貨物には往々火災の起るので有名だ。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●鳥瞰の萬里の長城(山海關)
有史上燦として世界に氣を吐くものは二千三百年以前の偉業を語る萬里の長城である。一日十八回の食を給し不幸にして死する者あらば壘下に埋めで人柱とし以て國家の守りたらしめたと云ふ口牌は今も附近の里人の間に傳はつて神業の如くしか考へられぬ偉業に現實味を投げかけるのも頼もしく嬉しい事ではないか。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●狼煙臺(山海關)
敵襲に備へる爲めに萬里の長城の所々には狼煙臺がある、臺上遙かに信號を認めて人走り、馬啼いた時代を思想すると思ひは百年の昔に及び、或は千年の昔に還へる、上方に伸びて展開する土地は關内であつて山海關に面してゐる。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●蒙古の王さん(風俗)
蒙古の王族も共和時代になつては名ばかりの王樣になつて了つた。淸朝の頃京帥に參覲して所謂文化生活を味ひてから、蒙古固有の精奸の氣はどこへやら陣笠然たる官帽を頂いて今に昔の夢を繰返して居る。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●搾乳(蒙古)
生活物資に欫乏した蒙古に唯一の滋養食糧として與へられたものは牛乳である。牛乳は勿論生では保存が出來ない、貯藏は先づ加工法の工夫から始まる。蒙古人は酒も牛乳から造る、バタ、チースの固形物を得るためには彼等は相當の苦心と犧牲とを拂つた後の經驗であり發見であろう。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●山海關城壁
今から四百五十年前の築造に係るもの萬里の長城は此の城壁に添ふて角山寺高地へと登つて行く。明末滿洲民族の興起に依つて京師の物情は常に騒がされた時胡狄の防備に築いたのが此の天下第一關である。城壁の高さ四十尺、厚さ二十尺周廻三哩に渉る堅城鐵壁である。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●二郎廟附近の山勢(山海關にて)
恰かも盆石の配置をそのまゝの自然をポーズとした處に此の寫眞の價値がある。處は遼西の名所山海關附近二郎廟と俗稱されて居るが第二奉直戰の激戰地として名高い。山峽を曲折して流れ來る水の淸冽には一層の美感を加へしめる、此の河の名物は鮎だ。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●錦州漬
錦州は京奉線中古來からの大街で遼西の衝路に當る此處の名産は漬物で、旅の土産には恰好のもの、問屋の庭先、露天幾十の醬壺には可愛い胡瓜やさゞげが自然のまゝに鹽藏される。支那は漬物に於ても私達の先生であつたのだ。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●蒙古へ(錦州にて)
東蒙貿易の衝路として遼西に錦州驛がある。蒙古通商は總て馬背或は駱駝に據るのであるが錦州の問屋から運ばれる物資は綿絲布とか燐寸とか色々日常の雜貨類を持つて行つて歸路には毛皮、甘草の類と交易して來る。旅の朝古城を後に輕い黃塵を擧げ乍ら馬の頸鈴の音を立てゝ行く處は如何にも古典的な情景である。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●大豆囤積(開原にて)
特産の出盛りに鐵道沿線の各驛に集積する大豆の總量は實に大いしたものだ。此季節に糧棧の庭先にはアンペラ圍ひの貯藏庫が急造される、之れを囤と稱して簡易な造作であるが穀物類の蓄積には理想的のものである。一山約五百六十石(百二十噸)の容量を有し高一丈六尺、直徑十尺位、屋根の構造も勿論風雨に堪江られるものだ。貯藏大豆を取出す時には側腹に穴を明けて自然に流出させる點など却々勞力手數の簡略法として妙を得て居る。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●苦力(開原にて)
苦力の勞働力は絶對的に動物化されて居る點に於て確かに世界に比類のないものである。彼等は最低限度に於ける食糧の保證を與へられて居るならば决して他に多きを求めない。常傭苦力の給金月僅かに五圓を出でず、彼等の勞働時間は一日優に十五時間を働くのである。 (印畫の複製を嚴禁す)
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◇蒙古包(蒙古)
蒙古人の家屋を包といふ、水草を追ふて遊牧する彼等の住居は移動式であるべきは當然である。錐圓狀に圍つた簀子張と云つた恰好、骨組みは適當の枝條を矢來に結ゐた頗る丈夫なものである。冬季は獸皮を以て全部之を被覆して防寒する。背後に見ゆる枯枝の垣根は小牛を屯する檻である。包も開放地に近くなるに從つて固定的に泥を塗つたのや窓を明けたのや段々進化したものがみらるゝ。 (印畫の複製を嚴禁す)
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◇窓を有する蒙古包
移動式天幕の蒙古包の固定されたもの興安嶺麓正に盡んとする一帶にある。包に壁を塗り窓を明けた處に家屋としての包に進化を認めねばならない。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●泰山の山頂から(山東省)
泰山連峯中に傲(行人偏)徠山がある。突兀として聳立してゐる。山容は確かに泰山連峯中の白眉である。山中には傲(行人偏)徠名所として幾つかの寺觀が深山幽谷にその景趣を添へて居る。近來歐米人の別莊も建てられて避暑客を呼んで居る。山嶺に立つて白雲の去來する間から脚下に展開された山東平野を俯瞰した壯觀は何んとも言はれない。眼界遙かに汶河の流れが蜿蜒として白く下界に光つて見江る。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●泰山碧霞元君廟(山東省)
支那五岳の中最も古く最も有名なものは泰山である海拔五千四百尺の山頂、丹碧燦たる一殿堂が仙宮の如く空中に浮出されて居る。之れは道敎の本山碧霞元君廟で俗に泰山娘々と稱し宋代以來北支那に於ける民間信仰の一大標識として年々數十萬の登山者を招いて居る。子孫を授け富財を與へる神力のあらたかなること此の元君廟に如くものなく、道士は廟前に賽する善男善女に賽錢の增額を強要する處など泰山ならでは見られぬ圖だ。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●經石峪(泰山)
泰山の徑石峪は谿谷に開かれたる約七十平方尺位の河床の巖面を利用して金剛經を刻したもので文字の國支那ならでは見られぬ偉觀である。一字の大さ一尺から一尺五寸方形の大文字で六朝式の書體は豪宕塊麗千古にその雄渾なる筆勢を示して居る。今日筆者の何人なるかを確證するものがないが附近の徂徠山に在る般若經の石刻と書體が類似して居るといふので北齊王子椿の書だと推定するものがある。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●石摺り(泰山)
泰山の石摺りは内外に有名なものであるが、千數百年來風雨に曝された自然巖の大文字を古雅な石摺りにしたものは確かに觀賞家の垂涎に値するものである。風のない日泰山の經石峪に行つて見ると白地の絣のやうに巖面の刻字の上に白紙が張られて石摺工は刻命に捧先に墨汁をつけて紙面を叩いて居る。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●帆かけ一輪車(山東省)
支那人程自然力の利用に巧みなものはないといふことは每度感服させられるが一輪車に帆をつけて勞力の節約を計つて居るなどは天下の一品だ。而して支那の原始的慣習からいへば車は引くものでなくて押すものである。彼等は鋸を使ふにも鉋を用ゆるのも日本人の習慣から見れば皆な逆に力を用ゆるのも妙である。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●一輪車(山東省)
車は兩輪と極まつて居るやうに考へて居るものは支那内地に入つて一輪車の利用の多いを見て鳥渡驚かされる。併し車といふものゝ進化は恐らく一輪から發達したものであろう。車で調節しようといふのではない車上の乘客に依つてその平衡を調節するのだ。乘る人間も押す人間も共に七分三分のかね合ひで協調をうまくやらないと危險だといふのが一輪車から學ぶユウモアである。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●娘々廟の祭典
其一(大石橋) 胡藤の花咲く五月の末、滿洲の年中行事である娘々廟の祭が各地に催される。その中一番有名なのは大石橋迷鎭山のそれである。大祭日は每年舊曆四月十六日七、八日の三日間に渉りて、沿線の老幼數十里を遠しとせず之れに賽するもの何萬人たるを知らない。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●滿洲婦人の髪飾(湯崗子)
滿洲旗人の風習を傳へて居るといふ婦人の異樣なる髪飾は祭禮の日を飾る裝束としては如何にもふさわしい。 (印畫の複製を嚴禁す)
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◆牡丹臺の展望(朝鮮)
平壤牡丹臺の天下に名だゝる所以は敢て其鮮麗典雅山水の趣からばかりではない。其の乙密臺からの顧望は脚下に大同江の碧流を招き鍊光亭、浮碧樓の丹彩は、綾羅島を隔てゝ向岸船橋里を呼び渺々たる一小丘阜にして然も遠く雲烟萬里千里の視野を展開し雄大無比の絶景を支配する處に眞價はあるのだ。 (印畫の複製を嚴禁す)
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◆京城全市街
南山と北漢山の盆地に展開した京城の市街は、さながらの京都の街を思ひ出させる。李朝五百年の榮華を偲ばしむる丹靑の宮殿樓閣も町の品位を尊いものにする。鐘路街頭萠黃色の覆衣をして往く婦人の姿を見たものは日本の平安朝時代を懷古するであらう。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●楊貴妃の舞
支那劇は日本の芝居の起源より遙かに古く、既に三千年以前から組織立つて居たと曰はれる。現時中國の南北を通じて普通に演出される支那劇は二黃と西皮の兩戯曲であるが然しそうした長い歷史を有するにも拘はらず、其衣裝なり、頭髮冠帽なり、劇の演出方法には大した變化はないそうである。寫眞は中國北方梨園界の梅蘭芳と並んで南方の總帥たる大立物歐陽予倩氏が楊貴妃に扮裝せるものである。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●支那戯筱
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◇蒙古牛車(蒙古)
日本人には廣いといふ感じは海を見た時にのみ其最大限を意識する。然るに蒙古の平原に於て見る廣茫たる景色は眞に驚嘆すべきものがある。日は原から出でて原に入り、四方に擴がつた地平線内には一物の遮ぎるものがない。アノ草原に轍の跡を印し索り行く牛車は何處の部落をさすのであらう。 (印畫の複製を嚴禁す)
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◇街頭の駱駝(滿洲里)
國境の滿洲里に汽車を捨てた旅人は、街頭先づ此の駱駝の一隊に驚異の眼を見張る。駱駝はどう見ても町のものではない。あの脊の上の瘤、生眞面な面、而して悠容として迫らざる歩度を以つて進み來る彼等は野人の京見物といふ型だ。駱駝の産地は外蒙西藏寄り地方で内蒙はその産出を見ない。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●千山無量觀境内の日時計(南滿)
千山の道士は白雲を衣とし、霧を食とする底の仙人生活で、山中曆日などないかと思つたら無量觀の境内に計らずも日時計を見出した。道士が日時計の針影を眺めてゐる光景を見て居ると何となく原始的の感が湧く。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●無量觀の展望(南滿)
自然の雄と人工の妙と此の二つの融和を欠く怨みの多い千山に無量觀は僅かに兩者を併せ得て氣を吐く慨がある、その奇岩に倚る布置、その緑陰中より雄大の視野を占むる按配は、千山を滿洲第一の勝とする時、無量觀は正に此の千山を代表する名勝であつてその名声聲を恥かしめぬものである。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●孔子廟奎文閣(曲阜)
日光廟の輪奐は精功緻密を以て顯はれ、聖廟の結構は雄大宏壯を以て誇ると、何れを兄たり難く喧傳されてゐる。その孔子廟内の奎文閣は金の明昌五年(一一九五年)章宗の命名したもの間口九〇尺、高さ七五尺、奥行五五尺に亘る結構は壯麗を極め、幾多觀客を恍惚たらしめるものがある。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●洙水橋(曲阜)
史記に云ふ「孔子敎を泗洙の上に設け詩書禮樂を修む」と、其古事を偲ばしむる洙水橋は石欄干の古色優雅な太鼓橋である。橋下は即ち玉帶河で所謂洙水ではない。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●税關棧橋(上海)
支那の税關制度の起源は遠く周代に溯ることが出來る、由來支那では洋關、常關の二制度があつて洋關は歐洲人の東漸につれ海外通商のため一千六百八十九年上海、廣東、寧波、福州の四ヶ所に海關を設けたに創る、長髮賊の亂後暫らく徵税が中止されたがその後英佛米の三國から海關監督官が選任されることになつて復活した。今日では關税擔保の借款をしたお蔭で英國がその管理權を握つて居る。上海は何んといつても貿易港としては支那に於ける第一位を占め全支那貿易總額三十二億海關兩の半分は上海一港だけの活動に歸して居ることから察しても盛んなりと云はねばならぬ。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●印度巡査(上海)
上海の行政は大体に於て共同租界、佛租界、租界外に三大別され各その管理を異にして居るが、中にも共同租界は上海の商業的中心區域である。工部局は各國共同の市政機關で二十七ヶ國の繁雜な人種の生活を管理して居る。比較的狭い道路の目眩るしい交通の整理は主として印度人の巡査が其衝に當つて居る、黑白のダンダラの二尺餘の棒切れを振りかざして、一上一下よく熱閙の巷を秩序的に整理し割合に交通事故のないのは此巡査の働きだ。アノ偉大なる體驅に頭上を白布で巻つけた黑面朱唇の印度巡査は全く上海の一名物たるを失わぬ。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●黄浦灘路=バンド(上海)
國際都市として世界の諸民族二十七ヶ國の混合雜居の上海はコスモポリタンの市街として他には見られぬ色彩に色どられる。今から八十四年前鴉片戰爭の結果對外商埠地として開港以來急速なる發達を遂げ、最近では人口百五十萬と稱される大上海を現出した。 上海港は揚子江の一分流黄浦江口十三哩の左岸にあり、通稱バンド(黄浦灘路)と呼びなされる繫船區域は各国の代表的銀行會社の商業機關が櫛比集合せる國際的經濟戰場で、高壯なる大ビルデングは河岸を壓して建て列ぶ。街頭に客待つ幾百台の自動車の行列は近代文明の象徵の如く正に東洋一を誇つて居る。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●罷市中の南京路(上海)
最近南京路事件の發端地であり、上海第一の商業中樞區域である。平常ならば織るが如き各種の交通機關で車道は埋まり、行人の肩摩轂擊で歩行の自由を奪われる程の人道、兩側の各商店の店頭から揭揚される各種雜多の旌旗は街頭に五彩の渦巻を起して所謂上海氣分を漲らす。六月二日些細なる國際感情の衝突から此の街の一角に發砲の不祥事件があつたのをきつかけに市那商店は一齊に全罷市を斷行した、而して日英を標的として猛然たる排外運動は燎原の火のやうに支那全土に瀰漫した。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●寒山寺(蘇州)
寒山寺は楓橋夜泊詩=月落烏啼霜滿天 江楓漁火對愁眠、姑蘇城外寒山寺、夜半鐘聲到客船=の有名な詩と共に古くから我が國に知られた寺で、蘇州城外西、里余の所にある。寺は約千四百年前梁の武帝天監年間に起り當時は妙利普明塔院と稱した、其の後火を失する事五度に及び創建の歷史は古いけれども現在のものは割に新しい。文徵明の書になる張繼の詩碑以外には見るべき遺跡の何物も殘つてゐない。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●寒山寺の詩碑(蘇州)
張繼の詩は唐時代のもので、最も古い筆者は宋王邭公の筆になるものであるが、今はそのあとかたもない 次は明代の文徵明の筆になるもので、之も度々の炎上に壤れ、久しく草間に捨てられてあつたが、今は繼ぎ合はして壁間にはめ込んである(寫眞左端) 新碑(右端竪に立つてゐる)は淸末の大儒者兪曲園の筆になるものである。尚同詩については昔から種々と異論があつて詩中「江楓漁火」は江楓でなく「江村漁火」が本當だといふ説が有力で新碑の筆者である兪曲園も碑面には江楓と書いてあるが裏面には江村が事實らしいといふ考證文が刻してある。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●女夫船頭(上海)
上海には水上生活者の群れが可なりに多い、夫婦一代は兎に角子々孫々船を唯一の世界として板子一枚の下は地獄と觀じて居るかどうかは知らぬが、棹一本、櫓一丁の元手で女夫共稼の渡世は割に平和だ。南方の支那では婦人に纒足などをして鵞鳥のやうな歩方をして居るものは一人も居ない、男と一緒に勞働に服して生産に努力する處に彼等の強味がある。上海を中心に女權運動の盛んなのもあな勝女船頭の影響とも云へまいか、女はその足からの解放によつて先づ新しい生活に目醒めたのである。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●小渡船(上海)
河流の多い南支の風景は到る處水鄕の感を起させる從つて船運の便が發達して古から操舟の術が發達して居る。燕のやうな櫓部の恰好も面白いが半圓形の屋根を設けた下には船頭の生涯を托する小天地がある、朝には呉客を迎へ、夕には越人を送る渡船業者の人生觀こそ聞かま欲しい。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●明の孝陵(南京)
南京朝陽門外約三哩を距てた鐘山の南西麓に築かれた明の孝陵は、太祖洪武帝と其妃馬皇后を合葬したもので、周圍の景觀の宏壯雄大は今日も尚ほ當時明朝の盛運を偲ばしむるものがある。長髮賊の亂には南京城と共に兵火の災に罹つて廟堂は烏有に歸した以來今尚ほ頽廢に委せられて居る。此の寫眞を撮るために櫻井が南京停車場前で群集に包圍攻擊を受けあはや排日騷ぎの犧牲にならんとした時、彼の大説敎に感激して尋ねて來た二人の敎師と五人の學生は、とう(とう)此寫眞を撮るために頭に繃帶した櫻井を案内してくれた。印畫會としては尊い記念の撮寫である。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●明孝陵
石獸像(南京) 陵道の兩側約一哩餘の間、七八十歩每に石像の獅子、象、駱駝、麒麟、馬、文官.武官.等が道を挾んで立つて居る。 これは人蓄を始め森羅万象皆帝王の陵基を守るといふ意味から建立したものでその小さいもので七八尺、大きいものは二十尺餘にも餘るものが一塊の巨大な巖に彫刻されて、驚くべき異觀を呈して居る。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●雪の杣小屋(興安嶺)
汽車を捨て、四十四露里、北滿唯一の高地(海拔四千尺)興安嶺がある。そこには零下四十七度のレコードがある。水も木も石も萬物はみな凍る。 その寒さに丸太を積み重ねた露西亞式の杣小屋からほそ(ぼそ)と炊煙が上ってゐる。霜花戞々となる夜、雪に冴ゆる靑白い月光、夢路は何をたどるだらう。 (印畫の複製を嚴禁す)
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◎連山關附近の雪景(安奉線)
凍結した路上の雪は歩けば戞々と音して足下で軌しる、街への勞働に出かけた労力は、西に傾く太陽に感謝つゝ山陰の己が村へと急ぐ。白雪の衣に裝はれた冬枯の山は美しい笑をもて平和の休憩にまで彼れを迎へる。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●興安嶺の白樺
(北滿) 白樺の森、それ自身は既にロマンテツクな感じを與へる。それが雪原の中に見出されることに於て一層深い印象である。五、六月頃雪消江の春光にあの夢のやうな若芽の出る光景を想像するだに一種の感激ではないか。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●霜の花(北滿)
霜の花の華麗、壯美は曾つてスカンヂナビアの冬の物語りに見、北獨逸の都に現はれ、時に北京の冬の朝に眺めらるゝ事を旅人の話に聞いた。今興安嶺の山中零下三十度の嚴寒中に圖らずも之を見てカメラの中に納めることが出來た事を喜ぶ。 霜花の成因については科學的には面白い研究であるが、通俗に之を解釋すれば空中の水分が枝條に附着しがのが強烈なる寒氣に遇ふて結霜するので天巧の神秘だ。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●船の部落(南支)
昔からの諺に船陸に上るといふことがあるが水鄕の南支には往々船で造られた一部落を見出す。正に文字通り船陸に上つたのだ。まさか水害を恐れて船型に家を造つたものではあるまい腐杇して水上に適しなくなつた古船は陸岸に引上げられて隱居さす。同時に老人や子供等も此の家に移されることだらう、菰を以て覆はれた屋根、無雜作に明けた窓、これも水陸生活の推移を物語る人間史の一ドキユメントであらねばならぬ (印畫の複製をお斷りします)
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●乞丐船(南支)
水の世界に見出した花子(乞食)の生活には矢張り船もいれば櫂も要る、女なるが故に兒を抱いて居るのも怪しむに足らないが、乞丐船の存在はどうしても水鄕でなければ見られぬ圖だ。漂浪の生涯を眞に板子一枚に托して西に東に水草を追ふ彼等は陸に見出す乞丐よりも反つて氣樂さうにも見江る。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●蘇州城外の運河(南支)
蘇州は古來上有天堂、下有蘇杭と謳はれた程杭州と共に山水有勝の地である。往昔呉の闔閭王が伍子胥に命じて築城し周圍四十七支里古は天の八風に象りて陸門八、地の八卦の象りて水門八あり頗る偉觀を極めたと傳へられる。 物變り星移りて風雨二千有五百年、姑蘇城外に夜半の鐘聲が聞江た客船には何處の有情子が乘つて居たか河水空しく流れて城壁の黑煉瓦は苔徒らに靑い。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●鵜飼船(蘇州郊外)
斷橋のあなたから帆船が二ツ下りて來る。川は次第に廣がつて江村の夏の晝は森閑としてもの靜かだ。木蔭に憇ふて居た鵜飼船は水面に大きな波紋を描いて船を河心に進めると鵜は一齊に船側に隨つて泳ぐ。やがて鵜は水中にくゞつたかと思ふと鵜飼は船ばたを叩き聲を勵まして切に號令を發して獲物に氣合をかける。而して獲物に胃の腑をふくらました鵜はポカツト水面に浮び上ると長い竹鈎のついた棹で船に引よせその獲物を吐かす。かゞり火を焚いて水中に日影を落しつゝ欵合の聲を流がす夏の夜の情趣はなくも鵜飼は確かに夏の畫題だ。 (印畫の複製をお斷りします)
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●橋(蘇州附近)
水から見る表蘇州の街區と街道の聯接は言ふ迄もなく橋である。しかもその橋はアーチ型に半圓を描いて水面にその影を落す處に全圓形を現はして如何にも巧みなる美を表現する。橋上の廟も風致としては却々に面白く支那でなくては見られぬ景趣である。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●水田の灌漑(南京)
三伏の暑熱は生けるものゝ總てを旱魃の憂にまで導く、瀨戸の裏田には今日も水揚げをせねばならぬ。チヨロ(チヨロ)小川に水揚機を据つけた儞達は鄙歌面白く二六時中一種のリズムを起して勞役に從つて居る。省内何千萬石の江蘇米の産出はかくて粒々辛苦の賜である之れも夏の日の情景の一つだ。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●支那農家(南滿)
下層の支那農民の貧しい生活費の中一日の食料費はタツタ八錢六厘だと聞いたら生活難に惱む日本人などは吃驚するだろう。前庭の高粱畝は既に秋の取入れを濟ませて來る冬の生活には差つかゑない農民の安らかさを見る時、安泰を裝う王侯の生活よりもプロの幸福はこゝにある。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●天齊廟(大連西崗子)
天齊廟は道敎の一種として取扱はれて居る。支那最古の信仰で後代道敎と結び、佛敎を取入れ今日に至つた最も普遍的な支那の宗敎である。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●至聖孔子の墳塋(山東曲阜)
濟南から八十哩の處に曲阜驛がある。驛から更らに六哩にして曲阜縣城があり、城外約六萬坪の地を相して大聖孔子の墳域が築かれて居る。舊紀には冢の高さ一丈五尺南北五丈東西六丈五尺馬鬣の如しとあるが現在は圓形の土饅頭である。至聖文宣王の謚號は元武宗の追封したものである。靈界の偉人こゝに瞑して既に二千年東洋文化の發祥は長しへに此の曲阜の地に輝いて居る。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●石門(山東曲阜)
曲阜の孔子廟に行く參道に牌樓がある。此の牌樓は支那の何處にも見出される頌德門で孔子の人格德望を永遠に傳ふるための紀念物である。 (印畫の複製を嚴禁す)
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◎支那兵(山海關にて)
彈丸袋を肩に掛けて、付け劍も物々しく直立不動の支那兵は決して我が將卒から見劣りはしないが、然し自巳のパンを安易に得んとし軍服を着るものと、國家の干城として赤心奉公に盡すものとの間には、巳れ一個を脊負つて立つのと、國家を自巳一身に擔ふとの差別がある事はどうする事も出來まい。 (印畫の複製を嚴禁す)
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◆蓮歩楚々(湯崗子)
湯崗子溫泉對翠閣から不圖窓外に目をやると池の畔を三々伍々佳人楚々として蓮歩を運ぶ。日支共存榮の立場から支那舘龍泉別墅を加へた。溫泉は年一年と初期の目的に近づきつゝあるは自他共に慶賀に堪えない。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●釣魚臺附近
滿洲耶馬溪の俗稱ある形勝地で、翠松紅蘿を點彩した斷巖絶崖が細河の碧潭に臨んで數十町の間壁立して居る。汽車はその崖下を走り車窓の眺め旅情を慰むるに足る。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●釣魚臺(安奉線橋頭)
橋頭驛から約一里細河に沿ふて車窓から眺めらるゝ峽谷の景色は遠く塵界を隔てたものである。 その中風光の最も明媚なる所を釣魚臺と名づけ斷崖絶壁の下、碧潭深淵をたたへ山水の景風滿洲第一の稱がある。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●哈爾賓《哈爾賓》街頭所見(北滿)
さながらゴルキーの「どん底」に出て來るやうな場面である。舞臺をそのまゝの息苦しい現實だ。空の鳥には巢があり、野の狐には穴があるけれども、彼等には枕する處がないのだ。ロマノフ王朝の政治が民衆とあまりに懸絶し過ぎて居た結果は、富豪顯紳の乾坤一變、無一文とされた結果は隨所にこんな悲惨が演ぜられたものだつた。世に急轉直下の流轉ほど哀れなものはない。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●北陵の山門(奉天)
由來靈地と樹林とは不可分のものと見江る。だがそうだからとて自然のまゝに放置することがより神聖さを加へるとは思へない筈なのに、現實に即することしか知らぬ民國人達はともすると靈廟を荒廢に委してすましてゐる。祖先の祭り、それを絶やす國民が國政に冷淡なのも决して遇然ではないだらう。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●鴨綠江上流の朝色
雲の奥に潺淙の響きを包み、朝色未だ調はざるに早筏は雲の絶間を雲に追はれ、哀切なる勞働歌に初秋の憂ひを長く引いて、二百幾十餘里の長い流浪の一頁を繰る。山靈を溶ひて飽く迄も淸澄な水も、果ては世の怨みを泛べ、耻を流して、爭鬪の人生を横切つて河幅七八十間「十字に開けば眞帆片帆」の鴨橋下に混濁に凍る。今は只徒に山の紫を抱いて片塵も止めず、六根淸淨の雲外の杖は暫くはこの聖流に添ふて白頭山頂へと導かれて行くのだ。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●天池湖
その一 (白頭山頂) 圓頂緩斜、女性的なふくよかな山肌は白銀に輝き茲八千尺の白頭山頂、秀巒五座を擁して千古の雪を溶かし一碧の銀鏡を抱く。天池湖と呼び周圍三里、常に妖氣を含んで凄麗、ダンテの神曲の巨人が繫がるゝ寒冷地獄を聯想するが如く、異樣なシヨツクを享ける妖美な非現世的な景趣のものである。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●天池湖
その二 (白頭山頂) 鮮人は彼等の始祖「檀君」の降臨した處と傳稱し、支人は淸朝祖發祥の地と傳説する。潭心より生れ出た妖美な女性が情炎の黑髪、魅惑の朱唇に妖艶な悶江を罩めて銀砂に眉柔かにまどろむ或日、黑い雄蝶はその朱唇に宥されて三日四日遂に陶惚として愉悦に慓へて死んだ。間もなく美女は偉丈夫を産んだ、それが淸朝の元首愛親覺羅であると傳へてゐる。石を投じ血を流せば忽ち水は怒る、日露役前露人三名水深を測らんとして山鳴り水逆だち須叟に湖底に奪はれたといふ、あやしくも美しい湖だ。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●白頭山の遠望(無頭峰にて)
麓を捨てて約七千尺にして無頭峯の頂上は燎爛たる花の高原を現出する。落葉松の密林を越して右より二次の高峯は目ざす白頭山である。聖女の愛にも似たお花畑を過ぐれば浮石[ピユウミス]の沙漠のやうな地帶となる、何かの終焉を想起する、索莫たる空洞の音をたてて四里進むと白頭山に達する。 (印畫の複製を禁嚴す)
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●山頂の火口壁(白頭山)
桔梗色に霞む湖面に山襞より脱れ來た風は漣浪を起して湖心めがけて千條の銀龍を走らせて相寄り相抱いては消江てゆく、湖面に添ふ地肌は黄白に赤黑に弧は圓に三角は菱に水に影を抱いて千態、あやしくも古代の紋樣を描く。そこには草の葉一ゆらも見出せない。 所々の斷崖は浮石[ピユウミス]の小さな銀砂は吹き上げられ吹き下ろされて銀帛を懸けたるが如く、湖面に裾を濡らして連りこの靈湖に亦神韻を深くしてゐる。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●上流の處女林(白頭山附近)
鴨江の上流長白山脈の一帶連互實に二百三十万町歩擁材量十數億萬尺〆(尺〆は十二立方尺)に及ぶ無邊際のい一大樹海が、枯腐すれば空しき終焉の地響きを立てゝ斃れ、跡よりは水々しき樹肉の新緑は榮江て、徒れに密に枯榮千古、絶江にて斧銊に冒されなかつたが茲二三十年來近代的産業文化はこの靈境秘庫を雪崩の如く蠶蝕し、丁ゝ發矢、斧は霜に燃江る紅葉を散らして千古の靈木は市に鬻がれるやうになつた。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●國境碑(白頭山)
圖中頭部山合より右へと降つて豆滿江となり、左の山頂より右へ流れ左へ曲折して谷間を走り鴨綠江となり、永久に脊いて世を隔て國を隔つて流れて居た。康凞帝の時宇、臣穆克登をして此所に境界碑を立てゝ國境を定めた。今は水涸れ往昔のせゝらぎを立てて流れた姿の儘の輕石は銀色に輝いて、紅玉色の苔、黄白紫の野生の花に圍まれ、碑は今も昔嚴然として征服の歷史を物語つてゐる。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●筏組み(鴨綠江上流にて)
朔風心腸に凍る吹雪に膚肉を裂き、冴江かへる夜馬賊の銃火に魂消江て十月より十二月迄貧しき生を營む三万の樵夫の雪の一冬、嵐の一冬。勞役の困憊を罩めた採木は、春めぐり來て雪解けの水溫めば、小川を傳ふて一本亦一本、水を堰めては流し、流しては堰めて或る地點迄來ると流材は丘に上げられて切口へ穿口し楢の細木を撚ぢて柔軟にしたもので穴を綴つて再び浮された時はささやかな人生を流す筏となる。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●筏(鴨綠江上流にて)
山から切り出された木材の一本々々が狭い谿谷を傳ふて流下すると筏作業に差支ない場所に貯藏されて一定の筏にまで組立てられる。一竿の棹を賴りに鴨江百數十里の間幾多の急湍深淵を乘り越して支那と朝鮮の國境を綾手に漕ぎ乍ら流れにまかせて下るのだ。江岸の春空しく老いて谷の鶯靑嵐に吹き送らるゝところ早瀨を過ぎる筏師の魂は自然の交響樂に魅せれて、彼の喉頭思はずして鴨綠江節の一曲が歌はれる。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●三池湖(白頭山附近)
海抜四千尺の虛頂嶺は又しても迷宮の如く鬱蒼たる原生林中に登山者を導き入れる。斜陽は閑寂に煙つて怪しくも囀り移る禽鳥の飛去る處三池湖の水魅惑的に神秘の姿を現はす。森に圍繞された三つの湖は半里ばかりの間に連なつて淸澄、湖心の靜寂は創世紀時代の深い沈默その儘に世を隔てた情趣である。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●正陽内の譙樓(北京)
正陽門は内城への中央に位して居る。北京では俗に前門と呼んで居るが、附近は商賈櫛比してメンストリートたる貫錄を充分に備へて居る。北京に遊ぶ旅人の印象はまづ内城を圍む高さ三丈五尺余の城壁と九つの門とである。ギラルドが城壁を避けては歩けぬと言つた位で、中にも二の正陽門は明の永樂年間の榮華を沈默のうちに物語つて居る。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●玉泉山から見た水田(北京郊外)
昆明湖の水は元の世祖が北京の城内に導き、十刹海や太液池となつて水に乏しい北京人士に偉大なる恩惠を與へたが、更に乾隆帝は玉泉の水を昆明湖に、そして附近の水道を浚渫したので其流域は豊かな灌漑を得たので水田大いに拓け稻米の利を収めるやうになつた自慢しただけあつて水は渾々として湧出し、しかも極めて淸溂、水田を隔てゝ万壽山を望む。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●香山の古塔(北京郊外)
「西山霄雲」を以て北京八景の一に數へられてゐる香山は萬壽、玉泉を共に西山三山として知れてゐる。遼の中凾阿里吉の宅跡に依つて香山寺を得たが金の大定二十七年その世宗により改築され大永安寺(甘露寺ともいふ)と呼んでゐるが、巖石に壑を架し五層樓上の眺望また凡でない。其後乾隆帝の修築から靜宜園と名づけ結構の美を備へたが、淸末以後荒廢に委せ昔日の面影更になく、七層の古塔のみ、寂しく中空を睨んでゐるばかりだ。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●石舫(北京萬壽山)
長廊を西に進み、秋水亭淸遙亭等を過ぎると寄瀾堂へ出るが大理石船で有名な石舫がある。上部のみ木材を使用してはあるが、華麗なる彩色や彫刻はさすがに智謀術策を漲らした西太后の權勢を偲ばしめる。ここでなにがしかを奮發すれば紺靑の湖上にゴンドラに似た船で淺酌低唱も御意のまゝであるし、おうような櫓の音を聽きながら對岸の龍王島へ渡れるのだ。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●寶雲閣(北京萬壽山)
山頂佛香閣からは綠林を縫ふて西へ下ると銅ばかりで作つたといふ寶雲閣がある。なるほど一本の柱から家根瓦の釘まで一つとして銅以外のものは使つて居ない。全く豪勢なものだが萬壽山中幾多の廟宇の極彩色の華麗さに比べて、雲烟模糊として昆明湖から玉泉山の塔や近郊の長閑さが望見せられる。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●昆明湖より佛香閣を(北京萬壽山)
舟を湖心に泛べて指せばありし日、西太后が文武官と侍女達を伴つて畫舫の疲れをも癒した停泊所から右手に佛香閣の三層樓と三體佛を祭る頂上の萬佛樓を見更に芦荻茂る昆明湖畔から中央に昆明湖の碑と遠く玉泉山の玉峯塔を望めるのである。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●ラマ塔(北京萬壽山)
萬壽山の帝王豪奢の趾を見るものゝ中、學究の徒を除く外、西藏直營になる廢寺のラマ塔に留意するものは尠い。遙かに四方を俯瞰して眼界更に天地のなきありし日の西太后の權勢を偲ばせて囀た今昔の感が深い (印畫の複製を嚴禁す)
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●十七孔橋(北京萬壽山)
萬壽山の全景を眺めるのには佛香閣前の高臺の外にこの十七孔橋がある、龍王島への連絡に架せられたものではあるが大理石造の玉帶橋で十七の穹の上に長さ三町にも及んで居るのは蓋し偉觀である。橋上に佇んで右顧左睨するとき、其處には廣漠たる万壽山境域に低く高く幾多の華麗なる樓閣が昆明湖上に倒影するあたり此處に遊ぶものゝみの味はひ得る喜悦でなければならぬ。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●碧雲寺(北京郊外)
碧雲寺は元の耶律楚材の裔阿勒彌が其宅を喜捨して建立したのに初まつて明の天啓年間魏忠賢の修營に依つて結構の美を極め、更に乾隆年間に羅漢堂や藏經閣等を增築したものである。寫眞左上は印度須彌山の金剛寶座の型に仿つたといはれてゐるが、大正十四年十月七日支那革命の急先鋒である孫文の遺骸を安置することになつた。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●碧雲寺金剛寶座(北京郊外)
碧雲寺の金剛寶座は乾隆十三年(西紀一七四八)西藏僧が齎らした印度須彌山の金剛寶座の模型によりて築造したもので、其の用材は委く大理石の巨大なものを用ひ外壁には佛像、獅々頭、種々の花紋等を彫刻し背面の龕中には黑玉の佛像を安置し實に雄大莊嚴を極めてゐる。臺上からは玉泉、昆明の湖水がはるかに見へ背後は大行の山脈連なり風光また絶佳。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●鳩賣り(北京所見)
北京情景の一として忘れられむ印象を與ふものは、冬の空に鳩笛の音色を聞くことである。飼鳩の尾に笛をつけて空高く飛ばすと寒空に一種のリズムを起して朗らかなる音を發する。長い冬籠の沈默と無聊に苦んだ都人の生活に一脈の動的階調を與へる。 何時の頃から始まつたか知らないが如何にも支那人らしい風流である。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●大道床屋=剃る頭節[テートージヱ]=(北京所見)
簡易な職業具の一切を一竿に托して大きな共鳴機のびいん(びいん)と長閑な音を街頭の雜音に縫はせて、客あらば路上の何處でもが彼等の仕事場となる。 なごやかな陽を一杯に浴び、剃るものも剃られるものも街上の喧噪には無關心の裕暢さである。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●義和團犧牲者の碑(北京)
彈痕蜂窩の檜樹を背景にしたこの一小碑に對すれば夢は複雜に煙る。西太后嬌慢の一代は淫蕩に輝き、侫奸は氣味惡くも微笑んで、淸朝末路の秘史は怪くも波瀾に富む。扶淸滅洋を■(口の右に斗)んで立つた義和團匪も、廟議の操縱によつて、當時澎湃してゐた排外運動の露骨な表現となつて、首に賞金をかけられた各國居留民は、この凶暴の重圍に公使舘《公使館》を根城に奮戰したものであつた。其時勇敢な奮死を遂げた官補小島正二郎氏の魂は永遠に人類的な犧牲を偲ばして日本公使舘《日本公使館》内に瞑つてゐる。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●煤球兒[メイチユール]=練炭=(北京にて)
自然に惠まれてゐない大陸に住する者には燃料は切實に生活に影響響する。草原の蒙古人は牛糞に可燃性を發見し、北京一帶の人士は粘土の潜熱を巧みに利用した。累々と日を吸ふて山と積まれたものは粉炭と粘土を練り合はした煤球兒である。無價値な粘土を平凡に効利化し簡素な手工で割に多量を生産してゆくところに支那人特有の大まかな科學味の面白さがある。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●元の土城趾(北京郊外)
華かな世界統一の幻影に見せられた元の忽必烈は、先づ武威四邊を壓して燕京に築城した。然し蒙古人特有の力のみの信仰は、文化燦然と輝く中原に立つとき脆くも眩惑して、只一個の暴力の偶像にしか過ぎなかつた。風物蕭條の中、危く支ふるラマ塔の崩れ、蜒々たる土城の廢墟は、元の滅亡を語つて、北京郊外秋轉た淋しきものがある。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●公使舘區域(北京)
内より見せ、外より見せた城壁はかなりに物々しく堅牢なものである。各國公使舘が群居して居る周圍を繞つてゐるものとしては、餘りに時代意識に無關心な闇い暗示の影を引くものではなかろうか。 北淸事變後將來の惨禍を名として構へた支那國權の毫も及ばない治外法權の絶對不可侵地である。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●北海(北京)
水千姿万態の纎細な動きは、例へ北京人士の飮料水の万一の變に備へるといふ實用から貯へたれたものであつても點景の情趣を忘れられるものではなかつた。玉泉より引いた水は紫禁城内を冒し、禁苑一の絶唱たる北海を湛江て、街は森にかくれて森から續き、遠く霞む樓閣殿宇さては怪奇なラマの白塔を浮べて優雅な古典の、森の都、繪の北京に、一つの潤ひを漂はして居る。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●紫禁城(一)(北京)
山河千里國 城闕九重門 不覩皇居壯 安知天子尊 駄賓王 史乘三千歳、易姓革命の支那には淸朝帝京の豪奢も今は空しい夢となつた。民衆の力の根強さを知らざるオベツカ詩人は限りある一人の力をのみ信じて皇居の壯と天子の尊を歌つた行人徒らに昨日の夢を悲んで今日風に慓へる蘆の如き民の痴苦を思ふものなきは支那の現狀である。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●紫禁城(二)(北京)
秋の斜陽に照された黃色の甍は、宮城の全構圖を夢のやうに浮かび出して居る。景山の上に立つた三脚子はその雄大なる規模に稍々ポーズの中心を決めるのに迷へなきを得なかつた。 中にも魏々として聳江る大和殿の壯麗偉觀は、當年西太后が外臣と接見した虛禮の豪奢な夢を偲ばしむるに足りるものがある。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●天壇祈年殿(北京)
大理石の廻欄に璃瓦のドームは如何にも天壇の名にふさわしい形象の建築である。祈年祭は年の初めに當りて天子自ら億兆の幸福と五穀の豊穰を祈るもので、帝政の頃は年々此の殿堂に於て嚴かに行はれたものである。その華麗なる附彩と精巧なる彫刻は北京の建築藝術の中でも有數のものである、殊に前面階段の處に彫りつけられた龍の紋樣は偉大なる傑作である。 (印畫の複製を嚴禁す)