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●漁村曙
輕く岸打つ波の音に夜の帳がはがれ、薄靄のうちに曙の氣配が漂いそめるとはや暗の中に人々のさゞめきが聽かれる。早出の船は遙か沖合に影繪のやうに浮び漁村の朝まだきは淸々しいうちに明けかゝり、やがて眞紅の光が水平線にかゝれば海上は茜色に碎けて眼に入るかぎり莊嚴の一時が現出される。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●碼頭の朝(福州)
福州省城に行くには閩江の河口から遡航二十五浬の馬尾に碇泊し更に小蒸汽にて九浬遡らねばならぬ。油を流したやうな滿々たる閩江の流れに苫した民船はゆるやかな帆影を映つし、炊煙にうるんだ朝靄のうちに包まれた港の朝はいとも靜かな情景である。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●西湖の古亭(福州)
昔晉の太守が鑿つたと傳へらるゝ西湖は城外の北門と西門の間にあり、今は公園となり夏時納涼の好地となつて居る。當時は東湖と南湖とに通じたと云はれるが今は兩湖共跡形もない。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●九仙觀(福州)
福州省城の南門を中央にして西の烏石山に對し東南隅に九仙山がある。山中に定光塔(白塔)、太子閣あり、九仙觀はその中腹にある堂宇で漢代に何子兄弟九人此地に仙化せしより此名が傳へられる。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●鼓山の山門(福州郊外)
福州の南台から約九浬東方に海抜二千四百尺の鼓山の秀峯がある。山中に峻險あり淸澗あり老樹蓊欝たる間に丹碧の堂宇點綴する淨境で、名刹涌泉寺の名と共に盛夏好適の勝地である。天氣晴朗の日は山上より幽かに臺灣の山々を望み得る。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●轎子にゆられて(福州)
水に圍まれ丘陵に街衢をなして居る福州市街には狹溢な家並が續き坂路が多いので交通機關としてよく轎子が用ひられる。常綠の町の綠葉參差たる路次を轎子にゆられて行く氣分はいかにも南國らしい趣がされる。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●女勞働者(福州)
福建地方では男が多く他鄕に出稼ぎ昔から日本に來た者も多く此地方からである。男が少いため自然に女がよく働き、畑に、海に、轎夫に福州女は男に代る。これは街頭に立つ荷運びの挑子と云はれる女勞働者の群である。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●郵便船(福州)
閩江を語るにはその水上生活者である蜑族を忘れてはならぬ、廣東の珠江上に居るものと共に揖舟漁澇を主として陸の人々と區別せられ大きな船部落の群をなして生活して居る。これは部落の郵便屋さんが配達の暇に炊事にかゝつてる處らしい。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●やぐら艪(福州郊外)
干滿の差が三十尺も水量の增減を見ると云ふ閩江の流れは舟行の難所が三十六灘を數へられる。高いやぐら仕掛けの艪を操りながら難所を乘切る揖夫の手練は鮮かなもので、由來福建は地勢上漁業に秀で船乘りが多く、又支那海軍の發祥地と云はれて居る。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●茶館の晝(福州)
微風に徭れる若竹の葉擦れがサラ(サラ)と鳴る庭園の片隅、さゝやかに設けられた茶席に憩ふと何となく日本の初夏が思はれる爽かさである。ふと歷史に結ばれた數々の思出を辿るうちに鄭成功の活躍や倭寇の裸の勇姿など昔の物語が夢のやうに浮んで來る。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●延平附近(閩江)
閩江の水路は福建全省の動脈でその水系は四府一州三十縣に渉り二十七都市を連絡すると云はれる。河口から遡ること百數十哩の延平附近になると、兩側山容迫る間激湍を舟行する白帆を見るあたりそろ(そろ)上流らしい淸境が展開される。上流は更に三つに分れて奥地航路が開かれてゐる。(印畫の複製を嚴禁す)
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●民船の船着場(閩江)
福建の奥から山の人々や物資を積んだ民船が閩江を下ると下流からは都福州の便りをのせた船が遡る。船着場の一ときは幾日も流に徭られて落合つた人々の間に取引や雜談やで話が賑ふ。閩江岸の船着場には月數回虛[ヒユイ]と云ふ定期の市場が地方民のために開かれる。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●曳き船(閩江)
閩江の流域は舟航の難を以て知られその難所を灘と云ふ、閩江上下その數八百四十二灘と云はれるが普通は三十六灘が有名である。「一灘の高さ一丈」と云はれる干滿の差の多い個所は減水期の遡江に曳き船が使用される。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●猫雀船(閩江)
閩江を上下する民船は異つた樣式が多く、帆船にも布製もあれば竹製の帆を持つもあり、櫂も櫓組みの大きなものから種々あり、又船も家族常住の大船から荷積の猫雀船などが材木筏や竹の筏の流れる間を往復する風景は何となく南船らしい旅情をそゝる。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●水鄕情致
靑疊のやうな水邊に架出された軒先は河風をうけて淸々しく、纜を繫ぐ扁舟の水に映した影も小徭ぎさへも見せず、江上を滑る帆船も音なく對岸の翠巒淸冽の河水に和した水鄕の景は正に水墨の境地である。若しそれ暮靄迫り、灯ゆらぐ苫より漏るゝ切々の哀音河面を渉る頃ともなれば宵闇の情致また一しほであらう。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●渡し船(福州)
町裏を流れて走る竹の筏、家鴨を追ふ屋根船、鵜飼船船部落の苫など閩江岸の福州は水に彩られた都である。これは水鄕をつなぐ渡し船で棹をとる楫夫は多く女が見られる。由來福州は女のよく働く處で陸に海にその旺盛な活動力が伸ばされてゐる。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●朝餉どき(福州)
古來福州の閩江岸には漢民族から蠻族として蔑視せられて來た特殊な船部落の蜑族があり、一葉の扁舟に一生を托して水に活き水に死ぬ一群で、多くは揖舟や漁獵を生業としてゐる。一夜の夢をこの汀に結んだこの人々も今宵はどこの岸邊に炊煙を上げるやら。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●洪山橋上(福州)
閩江の福州南台居留地から約三浬上流に架けた石橋を洪山橋と云ふ。閩江遡航の發着地で上流水口とは小蒸汽の往復あり、戎克貿易港として商旅の出入頻繁な個所で北岸橋畔に同名の市街がある。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●萬壽橋(福州)
萬壽橋は福州の閩江中洲と北岸大橋頭を繼く橋で、元代約二十年を要して架せられた石橋であるが六百年の風雨のうちに尚嚴としてゐる。この橋を起點として下流の馬尾、尚幹、長樂、棺[左がこざとへん]頭等に小汽船の便があり、中洲を隔て南岸蒼前との間に江南橋がある。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●馬尾近く(閩江)
閩江を遡航して福州に赴く船は河口から二十五浬の馬尾に一度は碇泊する。馬尾は淸朝時代唯一の造船所のあつた處で、有名な海軍學堂は幾多の支那海軍先進の逸才が巢立つた學校である。閩江もこの邊は馬江と云はれ江中に馬頭巖、羅星島の勝景がある。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●江南の春(南京)
淮南の春は今漸く綻び楊柳の嫩葉を宿す岸邊の池水もいつとはなしに水溫み、春水に映る白亞も池塘も皆陽炎のうちに煙りやがて樹々を渉る微風に誘はれて囀る小鳥の歌をきくのも間近い日となつた。水に惠まれる江南の春は夢のやうに淡い感觸を覺える。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●淺春(南京)
春未だ淺き郊外の湖畔、柔らかな陽ざしが白壁に斑に動くと、嫩葉の小枝に吊された鳥籠の中に囁く小鳥の啼音に、ク、ク、と餌を漁る鶏の羽ばたきにも春の訪れが告げられる。城外莫愁湖の一ときは喧騒も知らぬ長閑な淺春譜である。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●玄武湖のほとり(南京)
冬の幕も落され綻びそめた春の訪れに三々伍々城壁を漫歩する足音が續く。脚下に展げられた玄武湖は夏時湖面一帶蓮の花に埋められ畫舫を浮べて置酒燕遊に賑ふ場所で、湖中に五島あり五大洲の名を冠して呼ばれ附近一帶を五洲公園といはるゝ。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●春の磯邊(南京)
南京の下關區觀音門を北に出て長江に平行して稍下ると江岸絕壁をなし磯石の兀然と江上に突出した邊を燕子磯と呼ぶ。春淺き江岸は淡彩のうちに煙り江上をすべる白帆の影も磯の香につゝまるゝあたり附近随一の勝地に數へらるゝ。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●中山門外(南京)
櫛風沐雨幾星霜、碧血の修羅を秘め靜かに姿を映す城壁を湛へて水澄む中山門外の景、暫し佇めば對岸に望む古戰場の山容は東亞共榮の礎となつた護國の人々の未だ失せやらぬ血の香に傷心の遊士の胸をうつて、強者共の夢の跡に愁々たる鬼哭を感じしめる。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●通州遠望(通州)
楊子江《揚子江》を遡ると間もなく南岸の福山に對し北岸に通州の町が見える。滿々たる江水を隔てゝ船上から望めば、丹碧の堂宇と古塔が陽をうけて山頂に建つ姿が浮島のやうに美しくしばし旅客の眼を慰める。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●金山江天寺(鎭江)
鎭江は江蘇の古邑として名高く、金山はその昔江中に吃立した《屹立した》孤島と傳へられるもので、中央の樓閣を江天寺と呼び樓あり塔あり閣あり、乾隆帝の雄渾な「江天一覽」の扁額を揭げた古亭もありて古來よく詩筆に絕讚せられた舊蹟である。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●小金山の春(楊州)
楚々たる美人の產地として知られた楊州の古都は隨の煬帝が江都宮を造り豪遊を試みた故地と傳へられ、城北三四粁の地に風光明媚杭州の西湖に比敵する湖あり、湖中に有名な平山堂、五亭橋あり淸の乾隆帝が好んで龍頭鷁首を浮べた景勝である。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●水の都(蘇州)
春秋吳の國都姑蘇の昔から二千五百年の靑史をつなぐ蘇州の町は、城の内外とも運河に連り市中は水陸縱橫に交錯し所謂姑蘇三千六百橋と詠はれた水都である。今は昔日の俤を偲ぶよしもないが尚水鄕情緒豐かな淸楚な町である。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●西湖の落暉(杭州)
古來彩管に詩賦に文人墨客に膾炙せられて來た西湖の山水、一度扁舟に棹せば淸澄な湖面に映る四圍の翠巒、岸邊を洗ふ埀柳の葉影に宿る塔影の古雅など眞に蒼翠參差たる景勝で、それ落暉湖面に碎くる一ときは正に筆墨に絕した美觀である。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●洞庭湖(洞庭湖)
一度夏季湖水漲溢の候となれば怒濤の澎湃たる壯觀を呈する長さ六十浬、幅三十浬の洞庭湖上の景は宛然たる大海の如くである。若し夫れ冬季水涸れの期となれば衆湖一時に落水して千里一望際涯なき洲汀となり地面を現はすの異觀す呈す。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●湖畔の漁人(洞庭湖)
湖畔にアンペラ造りの小屋を建てゝ捿む《棲む》漁人の姿である。海のやうな洞底のほとりに明け暮れ漁澇を營み減水期になれば農作を鬻ぐ貧しい生活、今日は網干しの間を暫しの憩ひにくつろぐのだらう、どことなく暢んびりした人々の情景である。(印畫の複製を嚴禁す)
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●南天門(南岳)
南岳の登山路を南岳廟から旋回して登ると十八里の高地に巍然と聳える南大門がある。美芙蓉峰を右に眺め高さ八百六十米、強烈な風雨を避けるため鐵瓦、石磚で造られた寺がある。此處に達すれば漸く眼界が開けて最高峯祝融が諸峯をひきいた雄姿が突如現れる。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●雲海(南岳)
雲煙漂茫と云ふ字は正にこの景觀のために出來た字であらう、衡山重疊と云はるゝ南岳の頂上はその儘南畫の領域である。南岳七十二峯の巒峯を包んだ雲霞は波濤の如く起伏して寸時も止まぬ、壯とはんか美と云はんか唯偉大なる自然の力に打たるゝのみである。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●岳州を望む(岳州)
洞庭湖と楊子江を連ぬる湖南北方の咽喉をなす地に岳州がある。人口十萬餘、古來軍事、通商上の要地とされた處、圖中左端に見ゆる樓閣は有名な岳陽樓で樓上から望む洞庭の眺望は宋の文豪范希文の名文で膾炙せらるゝ「銜遠山、吞長江、浩々蕩々、橫無際涯」の絕景と云はるゝ。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●岳麓山より(長沙)
昔から排日の本山の觀を呈し新思想の輸入地と知られた講學の地長沙はその地形上から軍事上にも樞要地とされて、事變以來は粵漢線に依り香港、廣東との連絡地となり特に重要視せられた。人口數十萬、圖は岳麓山より望めるもので江中の中洲と江岸に沿ふこの邊一帶は尤も繁華の巷である。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●蔡鍔の墓(長沙)
岳麓山の中腹、洞庭湖の景を望む勝地に民國革命の先達蔡鍔の墓碑があり、近くに共に母國再建に心血を注ぎ不幸病魔に倒れた黃興の墓も建つて居る。共に湖南が生んだ英傑、今戰火に包まるゝ多難な母國の現在を眺むる彼等の感槪や如何に。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●屈原の墓(湘陰)
一代の俠骨、楚の屈原が槪世の鬱憤を名文「離騷」に託して身を投じた汨羅江は湘陰から北七十里の地にあり、江畔にこれを祀る屈原庙あり、これに峙立する汨羅山上に昔ながらの江流を望みつゝ「故楚三閭大夫之墓」と刻まれた墓碣がある。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●虞帝二妃之墓(湘陰)
湘山は湘陰の北四十五里の地、湘江に望むところにある山で、山中綠葉參差たる中に虞帝二妃の墓がある。舜帝南巡の際蒼梧に崩じたので二妃身を湘江に投じて溺死し里人此處に墓を建てたと云はれ、墓の近く湘水の流れに望んで黃陵庙ありこれを祀る。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●湘江のほとり(湘江)
湘江は源を廣西の海陽山から發し北流して湖南の永州に入り更に曲折して洞庭湖に注ぐ間、途中數多の支流を集め沿岸の衡州、衡山、株州、湘潭、長沙の重要地の物資を集散する。湘潭は人口四十萬の町、衡山は有名な南岳のある處、衡州は湖南から廣東、廣西への水路の岐れる重要地である。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●廟の前
古煤けた場末の廟堂の石段に、色褪せた朱塗の柱に凭つた二人の道者、何やら儲口の相談らしく道服を着けては居れど羽化登仙と云ふ域には程遠い恰好である。入りの少い時は怪しげな祈禱もやれば賣卜もやり果てはインチキな賣藥迄もやらねばならぬ道士商賣も仲々世智辛い世の中となつた。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●曲藝師
名物露天市場の晝下り、賑やかな銅鑼の音に合はせていたいけな兒が曲藝の最中である。隣りの講釋が大聲で喚くとぞろ(ぞろ)と人々が流れる、蛇皮線に拍子木に寄席もあれば奇術もあり、街頭は正に民衆娛樂の歡樂境である。一つ横町に入れば油と韮の香にむせるやうに食慾が唆られる。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●高脚踊り
支那では祝事や廟會の日などには必ず銅鑼、太鼓、鉦、笛などの樂器を鳴らしたてゝ、赤、黄、綠、紫と色鮮やかな服裝に隈取りも美しい高脚踊の一團が街衢をねつて歩く。高棒に脚をくゝりつけ身振りも輕く手際よく捌く太鼓の撥も手馴れたものである。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●愛禽
薄明るい朝まだき廣場の靑葉の影に蒙古雲雀が囀り出すと、どこからともなく籠を下げた人々が三々伍々寄集つて、互に啼聲に耳を傾けつゝ長い煙管からゆら(ゆら)と煙を吐く。小鳥好きな支那人は勞働者でも暇さへあればよく籠を抱えては悠々と啼音に聞きとれるのを見る。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●午どき
滿洲に來る苦力は多くは山東方面から荷札をつけられて渤海を渡つて來た自由勞働者の群で、年に幾十萬と云ふ數が燕のやうに季節が來ると港に上陸して奧滿洲迄も散りわたる。午時であらう、金盥に盛つたお菜と粟の饅頭に舌鼓をうつてひと憩みして居る處である。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●藥賣り
物々しい房附きの長槍、緋房のある靑龍刀などをいかめしく並べてあるがこれは藥賣りの店先きである。内地の緣日によく見る「蝦蟆の油」と同種のもので、大刀や長槍を振り廻しては關羽もどきの嚴しい恰好で奇聲を張り上げ、矢鱈に刀疵をつけては藥の効能を並べ立てゝ賣りつける。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●街頭の床屋
バケツに安石鹼を入れ剃刀一丁抱えて歩く街頭理髪師、今お客樣を得て仕事を初めた所らしく、手際よく雜談のうちに仕上つて行く。田舎の町角や苦力の集まる個所などによく見受ける光景で美髮も衞生も不必要な彼等には如何にも好都合の現在らしい。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●輪投げ
射倖心は人間につきもので勝負は賭けねば興味を唆らぬらしい。由來支那人は賭博が好物で、大は數千萬兩をかける將軍連の大麻雀から小は路傍の輪投げにも一攫千金を夢見る心理には變りなく、緣日などにはこの種の店はどこも亡者と彌次馬で賑ふ。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●煙掃屋
山楂子の赤い串ざしが巷の小供等を喜ばす頃からそろそろ滿洲は冬の仕度に忙しくなり、『エントーソー』の聲が町角に流れ燒栗の賣り聲が夜空に冴えるともう冬が來たのだ。七ッ道具を肩にした眞黑なニーヤの姿も冬の滿洲にはなくてはならぬ景物の一つである。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●巷の飲食店
支那町の盛場には必ず屋臺の飲食店が並び、群集の雜踏に舞上る黃塵のうちに雜多な食物が色と香で味覺を唆る。この公衆簡易食堂は入換り立換りする人々で賑はい衞生など云ふ難しいものは此處では通用せぬらしい。この看板は回々敎徒の店で彼等は豚を口にせぬので羊肉を賣つて居る。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●夕の丘(蒙古)
一望千里遮るものも無い草原の丘に立てば、地平遙か金色の光に彩られた彼方、夕の陽は赤々と照映えて草原の一日も正に暮れんとして居る。家路に急ぐらしい逆光を浴びた放牧の一群の影は眞紅の隈取りに燃える。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●草いきれ(蒙古)
一望際涯無き草原の彼方、丘を越ゆれば千里沙丘の連續である。遠くに旅行く人々が暫しの憩ひに駱駝を止めてるらしい、陽は高く叢は炎熱のいきれにむせ返る。 果て知らぬ沙の上にて路分る唯見てあるも 寂しきものを (鐵幹) (印畫の複製を嚴禁す)
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●黎明(蒙古)
黎明の薄明が地上を匍ひ山の端が明くなる頃になると一夜の夢を結んだ遠近の包[ポオ]から淸々しい朝の大氣に今日も幸あれかしと拜む人々の姿が見られる。遙かに望む連丘は茜色の雲に包まれ、草原を點綴する包[ポオ]も淡い靄に未ださめ切らぬ。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●騎馬隊(蒙古)
その昔遠く東歐迄も席卷し偉名を傳へた成吉斯汗の覇業を偲ばせる蒙古騎馬隊、父祖傳來の精悍なる血潮は昔の儘幾多の戰績を殘しつゝ今は正規の敎練を受け國軍の一翼として活躍しつゝある。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●悍馬に鞭ち(蒙古)
燎亂と咲きほこる草原のなかにふと出遇つた年若い旗長の颯爽たる姿、白馬に飾つた緋房の色も鮮やかに一鞭輕く悍馬に鞭ち精悍なる眉宇は父祖の血を物語るものか新興の意氣燃ゆる蒙古にふさはしき年若き英姿に幸あれかし。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●轍のあと(蒙古)
今日も明日も草原につぐ沙丘、沙丘につぐ草原と幌馬車の朝夕をつゞける蒙古旅は寂しい。夕となれば車の内に假寢の夢を結び朝來れば又默々と旅を續ける。轍の跡を殘して行く車の群、今宵は何處に宿るやら。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●馬車を下りて(蒙古)
遠くの廟會の參詣に、幌馬車の内に永い日を草原の中を徭られて來た人々は、今馬車を下りて里人と何やら樂しげに語合ふ。久振りに聞く町の便りと土產を乘せた馬車が着くと老も若きも集つて話に聞入る。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●鄂博(蒙古)
蒙古の山頂や峠、山腹果ては草原の丘などによく石を積み上げた鄂博(オボ)と云はるゝ標石がある。道標、境界線などにされそれに山神地祇を祀り土地神として神聖視され、年一回毎に盛大な祭典が里人に行はれる。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●草原の喇嘛塔(蒙古)
蒙古に入ると到るところ喇嘛塔が散見せられる。宗敎上の信仰から建立せられたものでその内には佛像、經典、舍利などが納められてある。幾歳か櫛風沐雨興亡に曝された丹碧の白塔を草原に見るとき蒙古らしい旅情をそゝる。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●解説文なし
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●戰蹟碑(得利寺)
得利寺の復州河右岸にあたり風光淸雅の山頂に龍王廟がある。往年日露の役に奥第二軍が南下せる露國の大事を迎へて龍攘虎搏の戰火を交へた古戰場、日露會戰の鍵をにぎると云はれた激戰のつは者共の夢を秘めて戰蹟碑が丘上に建てられて居る。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●龍潭廟(得利寺)
海抜千四百五十尺、驛の背後に巍然として聳立する嚴山が龍潭山である。山頂に四時碧水を湛へる池あり、昔龍の棲める處と傳へられる。池畔に龍潭廟あり、山間の幽𨗉如何にも傳説にふさはしい靜寂境である。龍潭山にはまた得利贏城で知られた古城址がある。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●耕作(得利寺)
得利寺、萬家嶺の間は滿鐵本線中でも一帶が高嶺の地で人家も稀れな僻地であつたが、邦人の進出以來漸く水田、果樹、園藝、柞蚕等開かれると共に、山間にも營々といそしむ農民の姿が見られ多量の產額を見るに到つた。特に地方特種のものとして柞蚕繭は有名である。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●松樹公園より(松樹)
海抜二百五十尺の高地、四方山に圍まれた盆地に松樹の町がある。蜿蜒重疊せる丘陵のうねり、それを縫ふ淸流と鐵路、落葉搔く村童の姿も自然と溶け合つて山峽らしい美しさである。附近は松樹米の產出で有名である。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●熊岳城溫泉(熊岳城)
溫泉の少い滿洲では熊岳城は湯崗子、五龍背と竝び稱せらるる溫泉地で湯は砂湯と内湯あり、此處は特に大衆向の砂湯が有名である。季節になると冷い熊岳河の流るる河床を掘り湧出でる溫水にひたる人々で賑ひ、學生の聚落などがよく行はれる。(印畫の複製を嚴禁す)
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●溫泉街道(熊岳城)
楊柳、ポプラ、アカシヤなどの美しい並木の續いた溫泉街道、陽は旣に山の端に落ち、並木の葉を鳴らす夕の風は水田に映る雲影を徭いで金色の小波と碎ける。美しい街道の一ときは山も木も水も雲も唯紅一色のうちに暮れて行く。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●望小山を望む(熊岳城)
彼方平野のなかに島嶼の如く見える巨岩は、その昔一寡婦一子を遠く渤海を渡り進京せしめしが、遂に還らざるため日夜思慕の念に堪へずその巖上に悶死せしと云ふ悲話を傳へらゐる望小山である。(印畫の複製を嚴禁す)
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●靑龍山(熊岳城)
靑龍山は一名觀寶山とも呼ばれ、驛の東方三里の處靑松一山を包む仙境で、山上一望遠く渤海を望む巖洞の中に望海寺あり、喇嘛趙法師の建立するところと傳へられる。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●韓家の梨園(熊岳城)
舊城の南、松樹參差たる黃旗山の麓つづきに韓家の梨園と呼ばる紅梨の果樹園がある。二百年前韓某の隠遁經營せしものと謂はれ、二千餘の梨株、春は雪を欺く滿開に秋は紅果成熟の美觀に人々の杖を曳くものが多い。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●暮るる河原(熊岳城)
砂地をふんで河原の風呂に渡る人々も絕え砂湯を浴びる鄙人のさゞめきもやんだ夕の河原は、淸流に連丘の連る夕暉雲を映して小徭ぎもせぬ。微風が河面から砂原を渉つて闇近き山の端に行くのみで溫泉場の夕はいとも靜かに暮れて行く (印畫の複製を嚴禁す)
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●大同市街(晉北)
大同は山西の北部要地として知れた古都で現在は晉北北政府の所在地、嘗つては蒙古界の軍事地理上の重要地であつた。古來朔外族の漢土に入るもの必ず此地を征服し得たものが中原に覇を唱へた歷史の地である。人口約三萬餘、果實、羊、毛皮、石炭等の產出を見る。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●町の鍛冶屋(大同)
山西省の鑛物の豐富なることは全支一と云はれ、殊に石炭、鐵の產額は殆んど無盡藏とまで云はれて居る。從來交通の關係から採掘も振はなかつたが、近來次第に隆盛となり自然の寶庫は日に日に開發せられて行く。日當りの良い路傍に槌を打つ鍛冶屋の鞴も鐵の町らしい情景の一つである。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●省境(晉北)
一度烽火擧れば民族闘爭の修羅場を幾度か繰返したであらう省境も、今は僅かに朔風に曝された墩臺の殘骸と遙かに望む蒙古緣邊の翠丘が淋しく殘るのみである。その昔怨思の悲歌に徭られて遠く胡國に消えた王昭君が娥眉なども思はるゝまゝに蕭々たる日は暮れて行く。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●雲岡石窟(一)(晉北)
大同から西方七哩に有名な雲岡の石佛寺があり、北魏時代の遺物で支那古代佛敎美術の粹として人々に膾炙せられて居る。石佛寺の背後、東西に長い高さ三十米突の斷崖の壁面は大小無數の佛像が雕刻せられ精妙巧緻を極め大偉觀を呈して居る。これは西方窟最大の本尊で高さ十三米突餘の露出佛である。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●雲岡石窟(二)(晉北)
雲岡石窟は地形の上から大體東方窟、中央窟、西方窟に分けられ、大小の窟の數は一から二十迄數へられる。中央窟はその中心をなすもので、何れも當時絢爛と咲亂れた佛教藝術の粹を集め、意匠の豐富と技巧の精麗は西域の影響を受けたものと云はれる。圖は中央第九窟あたりの露出佛龕である。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●應縣(晉北)
應縣は晉北平野にある人口三千餘の小都市である。城内の佛宮寺は九百年前の建築と云はれ、一經樓と呼ばるる寺内の塔は高さ二百尺餘、六層の屋根を頂き遠く十里の地をも望まれる。内部は十層よりなり五層には佛像が飾立てられて居る。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●朔縣(晉北)
朔縣は朔州平野の一隅にあり、町は西に僅かに山を望むのみで廣漠たる平野に圍まれ南方を灰水が流るゝ。同蒲線の一驛で、此處から更に北方平魯、朔平に支線が出て居る。人口三千位、鼓樓を中心として四万四角、九支里の城壁に圍まれた田舎町としては比較的整つた商工業の地である。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●渾源(晉北)
渾源は舊山西省の北部、晉北と山西との境界に近い處にある町で、街は舊城と城西沙河の兩岸に市をなす順成街を中心とした一劃とに分れて居る。市街は峽水環流して「若龜負書狀」と地誌にあるやうな山に圍まれた美しい水都である。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●河曲(晉北)
河曲は西は城内より四支里を距てる黄河を界に陝西に接し、北も黄河を距てゝ伊克昭盟と界し、河の外側には陝西長城連る山西北部の要地である。黄河による交易は遠く甘肅、寧夏より包頭の間に行はれ、古くから漢蒙互市場として知られた處である。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●嫁入り(大同附近)
これは大同近い田舎で拾つたスナツプ、由來大同は京綏地方隨一と云はるゝ美人地で昔から纏足の美を讃えられた地方である。地方民は人情質直扑野と云はれる一面に「しまりや」の蓄財屋で有名でもある。一世一代の晴れの嫁御寮がさゝやかな轎に徭られて行くのも、さう思へばさうも見える簡易さである。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●水も空も(長山列島)
水平線の彼方水天髣髴たるあたり金色の光を見る間もなく、空も水も黄金色に包まれて莊嚴な日出の畫面が展ける。遮るなき大洋の朝は唯云ひ知れぬ絕大さにつまされのみでる。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●大長山の景觀(長山列島)
大長山島は貔子窩の南方十六浬の沖合にある島で、海鼠の產多く遠淺の海岸一帶は蜆貝の採集によく、又製鹽行はれ波靜かな港には戎克の出入が多い。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●海洋島の港(長山列島)
海洋島附近は海產に惠まれ捕鯨船の根據地として季節時に賑ふと共に、漁期に入れば島民は皆漁業を行ふ。山に圍まれた波靜かな港は自然に惠まれた良港である。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●瀞(海洋島)
夢のやうにおぼろな對岸のたゝずまい、油を流したやうな入江の瀞、僅かに動く小舟は隈取りの逆光を向けて二人の小孩も畫のやうに浮出る。黄昏近い靜寂の一とき水面も船も人も紅のうちに暮れる。(印畫の複製を嚴禁す)
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●長山列島を望む(城子[田へんに童])
關東州最端の町城子[田へんに童]の一角から望む長山列島の景で眼下白蛇の如く蜿蜒たるのは碧流河の河口で流を離てた對岸は復州に續く。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●朝色(貔子窩)
丁度今干潮時であらう、一里餘も干瀉となつた海岸は一望の泥の海となり、今し地平線に燃える朝日は泥の上に戎克の影を投げて未だ消えやらぬ朝靄のうちキラ(キラ)と光る。やがて岸邊に野菜と鮮魚の市が開かれて賑ふまでの一時である。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●貔子窩の鹽田(貔子窩)
一望限りなき鹽田、廣袤三千町歩の貔子窩の鹽田は沿線主要生產の一つで、年產十餘萬噸の生產を算へられる強い日盛りの日に天日に盛り下げられた鹽の山は壯觀なものである。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●杏樹屯の磯(杏樹屯)
長汀曲浦、遠淺の海岸にはた(はた)と岸打つ波に夕映が碎けるあたり大陸には珍らしい眺めである。杏樹屯一帶の磯は海水浴場としての美觀と共に有名である。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●暮るゝ農村
暮れ近い農村、日ねもし目隱しされてクル(クル)と廻つた驢馬は一日の憩について、主なき碾石は夕靄の中に淋しく暮るゝを待つ。枝を動かす風もなく只靜かな闇の幕は木も草も、皆そのうちに包んだまゝに暮れて行く。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●鳥籠のある景
春未だ淺い柔らかな陽差しが軒先に流れて、麗らかな微風が籠の鳥を訪れると美しい啼音が春を告げる。田舎ならでは見られぬ如何にも長閑かな一景である。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●祭壇
支那の佛事は凡そ停床(死體を床に移し)入殮(入棺)接三(死後三日目の通夜)送三(靈送り)伴宿(最後の通夜)點主(位牌式)送殯(出棺)を經て葬儀が行はれる。これは靈位の安置された祭壇で、多く中庭に假の建物を造り一般弔客の禮拜をこゝで受ける。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●磕頭の禮
永い間邸内に安置せられた靈柩は五七日乃至七七日を過ぎると出殯(出棺)となる。遺族の人々の盡きぬ號泣の淚と僧侶の讀經の中に最後の禮拜が行はれ、喪主は特に磕頭(跪拜)の禮をつくし、遺骸は轎輿に移されて墓地へと運ばれる。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●怪寄な供物
死者に對する牲と云ふよりも唯祭壇を賑はす供物だらう、皮を剝がれた山羊や豕の醜骸が供へられる。しかも立派な臺に飾られて美くしい行列に加はるのは如何にもグロテスクな存在である。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●盛裝の道士
支那での葬の樣式は宗敎の相違により即ち儒敎、道敎、佛敎、回回敎等によつて夫々異つた形式に據る。尤も普及せられて居るのは佛式であるが大きな葬式になると道士も僧侶も交つて行はれる。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●輓旗の列
訃聞を受けた知人は、輓靈とか緩幢とか對聯と云はれる弔詞と頌德を兼ねた美辭麗句たつぷりの各樣の旗を送る。白布もあれば金糸の刺繡もあり、それが長く續く程生前の徳望が評價せられる。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●彰德額
業々しい事の好きな殊にも多額の經費をかける事が孝道と心得て居る支那葬式は實に賑かなもので鑼、鼓、號筒、笙管、笛、鼓板など喧しいうちに長旒、大旆が物々しく、さては紙人形迄爆竹の伴奏と共に續く。彰德額もその一つである。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●路鬼人形
形相の嚴めしい路鬼と云ふ紙人形も葬列の一役に出る。途中の惡魔拂ひの役目をなすらしく如何にも支那らしい景物である。これは風に弄ばれながら擔がれて歩く怪神の一と休みするところ。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●供奉人形
紅、白、綠、紫など色とりどりの紙で造られた供奉人形が葬列を飾る、待童風もあれば兵隊もありさては煉瓦造りの建物もあれば紙製の馬までも出る。支那の冥衣舖の看板に馬を吊すのもこれから來たらしい。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●靈樞
玻璃金の裝飾を施した靈樞は普通八人乃至六十四人に擔がれ白づくめの行列のうちに陰調を帶びた細樂に送られて行く。冠婚葬祭を重じ、殊に葬式を尤も派手に行ふ風習が今も尚その儘につゞけられて居る。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●葬送の近親
服喪の期間は第一期を百日とし全期間二十七箇月とされ、喪服は百ヶ日間は麻を用ひ其後も總て頭髮の紐、靴の類迄白色づくめを用ひる。女も麻の外套を着て麻の裙子を穿く。葬列には今も花輪や生花と同樣に名物の泣女がつき形式的な役目をつとめて居る。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●溪流(鴨綠江)
未だ斧鉞の入らざる靈峰白頭の處女林、その密林の綠葉を滴る樹間の淸水を集めて流るゝ溪流の水音、瀨となつて奔流となり深潭となる鴨江も、此處上流の淸境では閑寂にこだまする禽鳥の啼音とせせらぎの囁きのみである。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●惠山鎭近く(鴨綠江)
大河鴨綠江も上流惠山鎭近いあたりは、未だ重疊たる山峽を右にさけ左に逃げて或は白磧となり碧潭と淀み曲折迂行する流に過ぎぬ。深綠と濃翠の間を陽に映えて蛇行する碧洌の色はあくまでも淸澄である。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●流筏(鴨綠江)
江岸の連峯が漸く綠葉に彩られかゝる初夏から全山紅葉にかはる晩秋頃迄、二百里の鴨綠江は流下する筏で賑ふ。かくて急湍を奔り激潭を渉る筏の群は山水の美觀と共に名物筏節のメロデイを流して鴨綠江情緒を漂はす。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●筏夫(鴨綠江)
初夏の候、冬期伐木され春かけて搬流せられた木材が編筏されし頃から、秋十月伐材の山入り迄鴨江の水に筏が流れて筏夫の生活が展げられる。長鳶一挺に流材をあやつる手練、筏節ならで唄ひながら瀨を越す朝夕、彼等の生活は男子の意氣であり男性の詩である。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●碧潭(鴨綠江)
兩岸相迫るところ山容水態悉く翠綠につゝまるゝ幽境葛田里は鴨江中随一の淸境と云はるゝ。若しそれ碧潭に扁舟をあやつれば萬斛の涼味江面に溢れ、參差たる綠葉の間に老鶯の聲を聞くあたり、正に詩であり、音樂であり美の絕對境である。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●關門あたり(鴨綠江)
江岸に突出た巨岩は夕映を背にうけ、彼方の山の端から流れた落暉は黄金色の細波となつて燦きばかりにきらめく。鴨江中流の灘所に數へらるゝ關門の瀨もいと靜かに夕闇迫るなかを一扁の筏が流に棹して急ぐのみ。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●飛沫を浴びて(鴨綠江)
眞白な飛沫を浴びて眩るしい程奔る激湍、一歩誤れば肌に粟するスルリを一竿の棹に操る筏師の緊張ぶり、堰の難所も彼等が腕の冴えに無事に過ぎれば、又しても鶯啼く翠巒のなかを悠々筏の人となりて江上に流れる。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●洗劒亭(鴨綠江)
興亡の語草の一つでもあらう岩壁に建つたその名も昔を偲ぶ洗劔亭、眼下江水を隔てゝ瞰む朝鮮の土、蜿蜒たる上流の迂曲は煙つて夢の如く江上に浮ぶ船影もいと靜かに、鴨綠江も此邊迄來ると漸く萍々たる大河の姿となる。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●支那筏(鴨綠江)
萍滿々たる江水は油を溶かしたやうに緩やかに、影を映した巒峯の鴨綠は淸流の色と和して瀞む。霖雨に一刷毛拭はれた後の靜寂のなかを悠々と支那筏は江面を滑つて行く。正に彩管も及ばぬ自然の畫境である。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●安東江岸(鴨綠江)
鴨綠江と云へば安東を必ず想起する安東江岸は、初夏から晩秋の間二百里の鴨江流域を上下する筏が蝟集し、數多い戎克の群と共に賑ふ。製材や製紙など木材に關した工場も見られ、一方日滿聯絡の要港として港は重要視されて居る。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●水都吉林(吉林)
いにしへの肅愼の國河長し山みな圓し野に楊立つ 鐵幹水に惠まれ四圍翠綠の遠山に包まれた吉林は、二千歲の歷史と共に滿洲の古都として京都の美に比べられる地である。人口二十萬、地方行政、敎育、經濟の中心としても重要な都邑である。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●吉林市街(吉林)
吉林は地形上昔から林產の都邑として知られ、市中も松花江の開河期に入ればその集散で殷盛を極める。市街は河南街、北大街、糧米街、西大街などが大きく、木材の他に葉煙草、蔴、木耳、毛皮などの取引が行はれて居る。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●毛皮の露店(吉林)
街頭の店先きに毛皮が並ぶ季節になると北滿の土地はそろ(そろ)灰色に鈍りかけ冬の仕度に忙しくなる。木材や毛皮の他に吉林は古くから地方特有の靈藥を賣る老舖があり、熊の膽や虎の骨、はては怪しげな靈藥なども漁れば手に入るらしい。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●北山より(吉林)
吉林の西北徳勝門から二十町程行くと路は北山へと登る。市街展望の最好地で山上に關帝廟、藥王廟、玉皇閣などの丹碧が美しく構へ、山上遙かに望む松花江の眺望は四方を圍む重疊の靑黛の間をS字形にコバルトを流して市街包むあたり滿洲には珍らしい水々しい景觀である。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●玉皇閣(吉林)
北山の山頂玉皇閣の主殿で、殿前樓門に『天下第一江山』の勅額が揭げらるゝ如く此處より眺める松花江は、源を靈峰長白に發し遠山翠黛のうちに曲折して脚下吉林市街を圍るあたり勅額にはじぬ景觀である。廟は舊四月盛大な廟會が行はれ參詣者四十萬を算すると云ふ繁昌さである。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●祭りの日(吉林)
舊の四月末にもなると北滿もそろ(そろ)初夏の候となり指折り數へた北山のお祭りに柳絮飛び交ふ坂路は善男善女で賑ふ。山水の美と共に典雅な風俗が今尚名殘を止めるこの町には『路遇寬袍女、革鈿插髮紅』と讃へられた麗人の姿も見られ美人の地として知られて居る。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●聖廟(吉林)
吉林は滿洲での古都で淸朝發祥の由緒にまつはる歷史の都だけにどこか古雅な處が殘り、聖廟の建築なども落付いたうちに輪奐の美が覗かれる。毎春行はれる孔子祭も學都にふさはしい莊嚴のうちに遠近の賽者が踵を接する殷賑さを呈する。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●靜けさ(吉林)
山の靜、水の寂、山容水態が融合され一色の翠美に溶ける松花江岸の洋々悠々たる姿は正に悠久そのものである。扁舟を江上に浮べ萍々たる江水を渉るも一興であるが、更に陽光の下に尺餘の魚を追ふ鵜飼の野趣は又掬すべきものがある。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●團子山(吉林)
吉林市街の松花江を隔てた對岸、鐵橋を渡つた江岸に圓い格行のよい小山がある。その昔高麗の城址があつた處と傳へられる團子山で、山上より望む松花江、吉林一帶の風光は頗るよく都人遊歩の地となつて居る。 大きなる川もろともに吉林の城暮れんとす低きところに 晶子(印畫の複製を嚴禁す)
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●江岸の筏(吉林)
流筏の季節に入ると吉林松花江岸は筏で埋められる。多く樺甸方面から江流を流されて來たもので、『萬筏大江上、王城春樹中』と詠はれた殷賑も陸路の發達につれやゝさびて來たものゝ尚『木の都』にふさはしい江岸の問屋が賑ふ。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●哈爾濱神社(哈爾濱)
北滿の鎭りとして哈爾濱神社が建立せられ遷座式を擧行せられたのは昭和十年三月である。新市街東站街の中央、この神寂し神域の一劃には朝夕神前に額つく人々多く、遠く故國を離れた身には一しほ神明の加護と皇國の稜威に襟を正さしめるものが覺えられる。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●綠の街(哈爾濱)
哈爾濱と聞けば二十何種かの民族を抱擁した惡の華のやうに想ふ半面にもこんな靜閑な一劃か見られる。滴るやうな綠葉の下を輕い異國人のステツプ、樹の間から漏るるピアノの調べ、遙かに望む寺院の尖塔など歐洲情緒豐かな風景である。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●中央寺院(哈爾濱)
その昔哈爾濱を東洋のモスコーになさんとしたザーの建設は先づ人心收纜の策として宗敎を利用し、未だ町並も調はぬうちに高い塔の尖端と圓いドームが空に聳え明暮れ鐘の響が流れた。中央寺院やニコライ堂の五彩の窓に今も昔のまゝ帝政の夢物語を淋しく鐘が鳴り告げて居る。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●花賣り(哈爾濱)
賑やかな繁華街の街角あたり、戀の小唄の花賣娘ならで面やつれた白露の老婆が草花を並べてるのを見る。その深く刻まれた皺と面ざしに帝政華やかなりし頃の將軍の未亡人の果てと誰れが云ひ得ぬものがあらう、これも哈爾濱が持つ情景の一つ。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●街頭にて(哈爾濱)
嘗ては東洋の巴里と謂はれエロとグロとの巢のやうに知られた哈爾濱情緒も今は精算せられたとは云へ、街頭には靑い眼、茶色の眼、黑い眼など裾も輕く賑つて異國情緒のうちに未だ洗練せられた惡の華を思はせるものがある。宵ともなれば獵奇の氣分が街角に流れて赤い灯靑い灯に酒と女が闇に動き出す。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●天理村(天理村)
哈爾濱郊外阿什河江岸に昭和九年十一月初めて鋤を下した拓民がこの『生琉星』[フルサイ]である。天理敎徒の信仰によつて培はれた集團で、一千三百餘町歩の地に鍬を下されてより十歳、當時四十五家族二百餘名の入植も二回三回と數を重ねて今は着々その成果を擧げて居る。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●麥の脱穀(天理村)
雨に喜び風を怖れ一年の間の忍苦をつゞけその抱懷する信仰に試練をつゞけて來た人々にとつて今日の收穫程樂しい日はなからう。山と積まれた麥の垂穗を今し脱穀に忙しい面にも、嬉々として戯れる兒等の笑顏にも喜びが溢れて淚ぐましいものさえ覺える。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●蔬菜畑(天理村)
年一年と耕作されて行く曠野、嘗つては鋤犂も入れずに荒蕪にまかせた北滿の大平野も到るところ開拓せられ今やその勞苦も酬ひられ廣袤千里見事な田畑が展開せられて居る。これはキヤベツの波がゆらぐ天理村の蔬菜畑の一部である。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●野良の午時(天理村)
晨に星を頂いていそしむ人々に午の一時は樂しい憩ひである。逞ましい親の双腕に抱かれた兒は嬉しげに、紺の裝ひも甲斐々々しい姉樣冠りの健康美、野を渉る微風は汗を拭ふてしばし團欒の集いである。この人々に二代三代と深く培はれて北滿の地はやがて豐庫となり樂土となるのだ。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●拓土に眠る(天理村)
粒々辛苦異境に開拓する人々の忍苦は尊い、老も若きも擧げて挺身する家族のうちに未だ成果も見ずに、土となる人々を想ふとき、野末に戰ぐ草花にも胸に迫るものを覺え淚なしには居られぬ。尊い先住者の墓標に一莖の香花を捧げてその靈を弔ふ。(印畫の複製を嚴禁す)
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●白塔(遼陽)
遼陽白塔で知られる西門外古刹廣祐寺の佛塔は、遠く金時代建立のものと云はれ堂宇は既に廢滅して影もないが、八角十三層の高塔は今も尚崇高な姿に鐵路往還の人々の眼を慰めて居る。柳絮をば混ぜてつばめの渦巻けり中にしたるは白塔にして 晶子(印畫の複製を嚴禁す)
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●城内十字街(遼陽)
東西二十五町、南北十八町の城壁に圍まれた遼陽城内は東西南北の四大門と更に二門あり、四門に通ずる大路の中央に會する十字街は最も殷賑の一區で、大小の商賈軒を並べその中心をなして居る。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●孔子廟(遼陽)
孔子廟は文廟とも云はれ由來文事を司る祠として識られ大方の都市には祀られて居る。遼陽の孔子廟は滿洲中海城に次ぐ莊嚴なものとして知られ、南門外の清淨閑邃の地にあり、門前古松を隔てゝ古色蒼然たる堂宇を望む靈域である。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●金銀庫(遼陽)
通稱金銀庫で呼ばれる丘陵の堂宇は觀音寺の境内で、此地は明代既に遼東の名區として知られたらしく寺觀は淸の初期に建立せられたものである。土地平坦な平野にこの町では最も眺望に適した高陵である。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●九龍壁の彫飾(遼陽)
西門外にある關帝廟は廢寺に等しく放置されたまゝ荒らされて居るが、滿洲最古のものと謂はるゝもので、境内前面南端の低地に九龍を彫刻した招墻あり、南面は磨滅し北面だけが尚殘存されて居る。これは壁の東端にある仙人の彫飾である。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●古風な招牌(遼陽)
遠く往古唐虞時代(紀元前千四、五百年)には禹貢靑州と稱し、其後高句麗の版圖に歸したが更に淸朝の都となるなど滿洲の最も古い歷史の都だけにどことなくそれらしい面影が殘り、町の樣子にも昔ながらの懷しさが偲ばれ、漸く影をかくしかけた古風な看板なども此處だけはしつくりと落着いて見える。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●新城(遼陽)
新城は驛の東北にあり、今は廢墟見るかげもないが嘗つては淸の創業經營の折には別城として蟠居した處、附近に創業の勳功者莊親王以下を祀る塋域東京陵がある。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●土城(遼陽)
城廓が石造になり堅牢になつたのは後代のことで、往昔は土城や柳條柵等で造られたもので、遼陽に殘る土城の跡は滿洲の城廓史上最古のものと推定さられ貴重な史料として識者間に知られて居る (印畫の複製を嚴禁す)
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●太子河のほとり
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●橘中佐の碑(遼陽)
首山は僅か七十米突ばかり平野に突出した丘陵であるが、日露の役遼陽の會戰に第二軍が最も苦戰した處、有名な橘中佐の碑は中央橘山の右側に、關谷大佐の碑は左側に、更に頂上には第二軍の記念碑が建立せられて歷史を物語つて居る。遙か眼下に展開する平野を望み頂上に佇めばそゞろ當時の事も新らしく苦戰の程も偲ばれる。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●城壁から(海城)
今は海岸線から約三十キロの陸地になつて居るが海城の町も昔はこの附近まで灣入されて居たらしく、歷史によれば隋の煬帝遠征の際兵站船をこゝに集中したと傳へられ、爾來渤海の南海府、遼の海州、更に明代を經て淸代に海城の名に改められた。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●魁星樓(海城)
海城驛から東南方約二キロを距る海城の南門内にある魁星樓は、建立の時代は詳らかでないが相當に古いものらしく歷史の町海城の昔を物語りげに聳えて居る。現在のものは其後修復を加へられたものと聞く。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●南門あたり(海城)
往昔、渤海の港營口から朝鮮に行くには必ず海城に出て柝木城、岫巖を經て鴨綠江岸に通じた處から海城は重要な地點であつた。南門から北門のメンストレートあたり當時絢爛を誇つた支那文化の輸入路として往復された頃を偲ぶとそゞろに懷古味がそゝられる。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●旗人の家(海城)
海城の町は南門から北門に通ずる目貫の大街を界に左は商業地區、右は屋敷町と大別される。淸朝興り滿洲族勢力を得て滿洲八旗の一族が華やかなりし頃の面影の名殘りが、今も尚古い町海城の屋敷町にある旗人の家構に偲ばれる。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●海城の印象(海城)
その昔滿洲八旗が生んだ淸朝の華やかなりし頃に八旗の人々が威を振つた時代の語草を思はせるやうな豪壯な邸宅の構へとその屋根瓦の嚴めしさ、辮髮に金絲の寬袍を纏うた旗人の姿が眼に映るやうな古い町海城の印象の一つである。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●玉皇廟山(海城)
玉皇廟山一帶は日淸の役の戰蹟地として知られ、尚當時戰爭の終局を告げしめたとされる激戰地缸瓦塞の古戰場もこの西南にあり、海城は由來瓦房多く缸瓦塞は特に琉璃瓦窯で古來から名を知られて居る。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●厝石山(海城)
海城は東西南北の四門を持ち、城内西北隈《西北隅》にある厝石山の丘陵を自然の天主となした天險の地である。丘麓に滿洲随一と云はるゝ孔子廟あり、山上には娘々廟祀られ人々の遊歩地とされて居る。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●柞蠶(海城)
柞蠶は滿洲獨特のもので、その飼料は野生のクヌギ、ナラ、カシワ等で飼育は極く手輕に出來るので、奉天以南の地方及び安奉沿線などで盛んに飼養されて居る。用途は絹紬製糸の原料として輸出される。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●欄可山(海城)
山上に突立する奇巖の間に亭々たる翠松の老株を通して望む下瞰、靑疊のやうに廣々と展げられた畑地、白絹のやうな河流を隔てゝ遙かに望む連丘、欄可山上の眺望は巨巖と老松を添へて正に一管の畫である。 (印畫の複製を嚴禁す)
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●初冬(海城)
朽葉がサラ(サラ)と空地の隅に渦卷き晩秋の囁きを告げる頃になると慌しく冬の跫音が訪れて來る。路傍を彩つた白いものが解けもやらずに春へと殘され、綿服を着込んだ路上の人々の頰を金屬性の風が刺すやうになると愈々本格的の結氷期が迫つて來る。 (印畫の複製を嚴禁す)