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江南新水景 (蘇州)
楓橋夜泊の詩を知る程の日本人にとつて、蘇州の名を忘れさせない唯一のものは、寒山寺であり楓橋である。|その楓橋の水の秋だ。だが、さん(さん)と降り注ぐ陽の光に、明るく描き出された楓橋のモダンスタイル、寒山寺の鐘も、もうこのあたりでは聞けないのだ。|(一九三〇、撮影)(印畫の複製を禁ず)
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秋空を突く (蘇州)
蘇州の旅の思ひ出の第二は、その空を突く美しい塔の幾つかの佇ひである。わけてもこの報恩講寺又の名北寺の塔は、グロテスクな美觀だ。高さ約二百五十尺、直徑四間、石骨木造九層、數字はちと嚴めしいが、遠く明朝萬曆年間の建造で、歩して頂上に登り得べく、登れば城の内外は全く一眸の中に在る。|(一九三〇、撮影)(印畫の複製を禁ず)
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黑甍白壁 (蘇州)
一九三一年の列國國勢要覽に見る蘇州は、推算人口五十萬、世界第七十五位の大都會だが、北寺の塔から見たその街は、山一つない平野を埋めて、寄木細工のやうに只黑い瓦と白い壁の平たい連續だ。東も西も、皆この木一本ない黑い瓦と白い壁との波だ。|午後の街を見下してゐると、變化のない奇妙な町竝が、妙な哀愁をさへ感じさせる。|(一九三〇、撮影)(印畫の複製を禁ず)
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名もない庭 (蘇州)
蘇州の良さは、御寺や塔ばかりではない。江南平原に育まれたどの町とも同樣に、水に惠まれたこと、蘇州萬百の印象は、先づ水に始るのだ。|名もない庭園ではあつたが、据ゑたカメラのレンズに、輝き出した朝の陽を反射して、薄く浮び出た運河の一筋の帶の可憐な白さ、蘇州の秋の景物も矢張り水だ。|(一九三〇、撮影)(印畫の複製を禁ず)
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甍は落ちたれど (蘇州)
一本の木材の梁もない開元寺の無梁殿と言ふのは、この城門のやうな建物である。唐の開元二十六年の創建、一木を用ひないで全部石の細甎を以て築き上げたもので、中央の天井が穹窿となつて本堂となり、四方の壁には梵網經を刻むだ奇妙な御堂だ。|寺は咸豐年間に燒けてしまつて、廣い境內には、今は、古瓦とこの一殿だけしか殘つてゐない。|(一九三〇、撮影)(印畫の複製を禁ず)
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滄浪古亭 (蘇州)
俗人との緣は有り餘る程であれ、蘇州は杭州程騷人墨客との緣には惠れなかつた。その少きが故に、この蘇子美の滄浪亭だけが、せめてもの蘇州の誇である。|『罪を以て廢せられ歸する所なし、扁舟南遊して吳中に歸す』と言ひ、自ら亭を營んでは『留連して日の暮るゝを覺えず』と歌はしめたこの滄浪亭が、今美術專門學校であるのも面白い。|(一九三〇、撮影)(印畫の複製を禁ず)
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吳王の眠る丘 (蘇州)
蘇州の名刹靈巖寺と言ふよりも、虎邱と言ふ名の方が有名だ。城外半里、吳王闔閭を葬るこの墳塋の上に建てられた寺は、實に唐以來の古刹で、歷朝の興亡と共に、五度燒け五度重修され、舊時の盛觀はもう窺ふべくもないが、殘骸棒のやう寺塔が、華かではあつたが稍慘めな王の最後を偲ばしめる。|(一九三〇、撮影)(印畫の複製を禁ず)
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采香徑の朝 (蘇州)
蘇州の名と共に語り傳へらるべき香高き唯一のローマンスは、吳王と西施との物語であらうか。|然しその靈巖山上館娃宮の趾も、今では礎石の幾つかの漸く雜草の中に探し當てる程に古びてしまつたが、香を兩岸に植ゑ、美人に龍首の舟を曳かせ、西施の肩を擁して舟中彈琴に唱和したてふこの溪川だけは、潺々の水聲依然として昔を語るのだ。|(一九三〇、撮影)(印畫の複製を禁ず)
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山境淸閑 (蘇州)
江南の水涸れし小川の畔に、すゝきいさゝかの穗をかしげ、落葉した木々の梢に、風が寒い十一月の山の懷だ。|府城から西へ約四里、支硎山はその昔この山に隱遁自適した晋の高士支遁の風懷を見せて、ひつそり閑と鷄の聲もしない。|山はもう初冬だ。前庭の齡二百年の梅樹もすつかり裸だつた。|(一九三〇、撮影)(印畫の複製を禁ず)
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葉は落ちたれど (蘇州)
奇巖怪石の山を負ふて、山麓に跼つた一群の家屋は、淸の高宗命名の高義園である。園中の楓樹數十株、樹齡何れも數百年の老樹であり、秋末初冬の紅葉の美は、江南にも得難い景勝だ。閑雅の寺門、水涸れし池、林間紅葉を焚いて酒を暖むる風流人のゐないのが只淋しい。|(一九三〇、撮影)(印畫の複製を禁ず)
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葛嶺より西湖を (杭州)
秋西湖は杭州全風景の中心である。杭州の代表者、それが西湖であると言つても敢て過言ではない。その西湖を一眸の中に見る展望は葛嶺を以て第一とするのに、その葛嶺自身が西湖何景かの一つであるのも面白い因緣だ。|右下は孤山、柳樹の長線は白沙堤、湖を隔てゝ市街の一部と、更に錢塘江を見る。|(一九三〇年秋撮影)(印畫複製嚴禁)
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塔のある風景 (杭州)
秋巨石山又の名を寳石山と呼ぶ山は、西湖諸山の中では數ふるにも足りない低丘陵ではあるが、この一基の塔を頂くことによつて、西湖風景の畫龍點睛である。塔は三國時代の建立、一千年の風雨に打たれて、塔影今はシヤープペンシルのやうに蕭條を極むるが、雷峯塔崩れ落ちた今日では、何と言はふと西湖風景繪卷の壓卷だ。|(一九三〇年秋撮影)(印畫複製嚴禁)
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白堤の朝 (杭州)
秋白樂天の名に因む白堤の朝だ。|秋の西湖では、夕燒雪が湖面を眞紅に染める暮の景色も素晴しいが、長堤の柳並樹が靄の中から次第に影を現して來る朝景色も亦棄て難い。朝の湖面には漣一つ立つてゐない。水に落した樹の彩の靜けさ、この風景では電柱の幾本かも斷じて眼障りではないのだ。|(一九三〇年秋撮影)(印畫複製嚴禁)
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名妓の名を (杭州)
秋唐代錢塘の名妓蘇小小の亡軀は『桃花流水杳然と去る、金粉六朝の香車何處ぞ』の詩句を柱に刻むこの屋根の下に、然も生前離れ難かりし西湖の水の傍に埋められた。|それから一千餘年が經過した。今は自働車が、人力車が、靴音が、朝から晩まで喚き立てゝ墓の周圍を走つてゐる。コンクリート土饅重の下で、小小はどんな夢を見てゐるだらう。|(一九三〇年秋撮影)(印畫複製嚴禁)
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雲棲竹林 (杭州)
秋磨き立てたやうな竹林を、西湖背面の山道に見ることの嬉しさ、竹林の美は、大悟した聖僧の靜座のやうな簡古な美しさだ、この山ではその石疊の道までが、心憎い程美しいカーブを描いて走つてゐた。|轎子はふはり(ふはり)と搖れて、一歩一歩の夢を仙境に運ぶ。|(一九三〇年秋撮影)(印畫複製嚴禁)
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靈隱山雲林寺 (杭州)
秋晉の咸和元年僧慧理が庵を結んだ故地に建立されたのがこの御寺だ。舊名靈隱寺本名雲林寺。然しこの建物は當時その儘ではない。唐代會昌の法亂に燒かれたのを手始めに、歷朝興廢一再ではなかつたが、淸代大いに重修したのも亦燒けて、やつと今から約二十年前、盛宜懷の喜捨三十萬元で出來上つたのがこの本堂大伽藍だ。|(一九三〇年秋撮影)(印畫複製嚴禁)
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羅漢群像 (杭州)
秋この五百體の羅漢佛を藏する羅漢堂は、雲林寺の境內本堂の背後にあり、堂の建立は遠く唐代だと言はれるから、相當の歷史を持つた建物だ。|薄暗い室内に、何れも相格容姿夫々の怪奇な印象ではあるが、丹念に見てゐると、その彫刻の手法には寧ろ驚かないで、五百佛のどれかに知人の誰かを發見して驚く。|(一九三〇年秋撮影)(印畫複製嚴禁)
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これも靈隱寺にて (杭州)
秋この布袋和尚、御行儀は頗るよろしくないが、仰ぎ見る相格實に福德圓滿、何人もこの前に破顏一笑しないものはない。布袋は梁の散聖の名で、彌勒の化身だと傳へられるから純然たる支那出身七福神御一人であらせられ支那人の渴仰一方でなく、繪に像に信仰普き福祿の守本尊ではあれ、露隱寺境內のこの像程の出來榮のものは、先づ少い。|(一九三〇年秋撮影)(印畫複製嚴禁)
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練丹の故址 (杭州)
秋見るから淸雅な山井だ。考龍井の文字までが、唐宋の手法を見せてゐるのも棄て難いが吳の赤烏年間葛洪が練丹の工夫を積んだ故址だと聞いては更に去り難い思慕を加へる。|今は單なる山僧炊爨の井戸に過ぎないが、この附近は有名な茶の產地である銘茶龍井の名は或はこの井に發祥したのかも知れない。|(一九三〇年秋撮影)(印畫複製嚴禁)
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石洞の彫刻 (杭州)
秋この石屋洞は、この洞あるが故に石屋洞嶺と呼ばれる山の下に在る。洞口には仰いで滄海浮螺の題字を見るが、洞內には五百羅漢其他の佛刻が無數にあり、手法の凡非凡よりもこの薄暗い洞内に、幾年の辛苦を試みた古人の信仰の力に驚かされるのだ。|(一九三〇年秋撮影)(印畫複製嚴禁)
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漁舟投網 (杭州)
そよ風もない錢塘江の朝だ。|漣さへも見えない水心に、笹舟のやうな漁舟が不思議な紋樣を描いて集つて來た。ざぶり!漁師の投げた網の重みが、一しきり渦を卷いて、餘波がひたひたと舟底を叩くが、又すぐ元の靜寂に返る。|渴つた水の上にも、朝は靜だ。|(印畫の複製を禁ず)
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湖畔の明るさ (杭州)
柳の葉はもう散りかけてゐる。|磨き立ての鏡のやうに光つた西湖の午下りモダーンな籐椅子附の畫舫が、頓に客を呼んでゐる湖畔だ。|それにしてもこの門の美しさはどうだ。創建の時代を語る奇妙な屋根や、苔むした黑瓦が、アスフアルトの道路やスマートな街燈とぴつたりと息を合せて杭州は流石に昔も今も明るい。|(印畫の複製を禁ず)
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街のカフェー (杭州)
著しく近代色を織りまぜて來た西湖畔の市街では、カフエーがもう軒を並べるやうになつて來た。|カフエーと言つた所で、外觀はこの店同樣昔の酒棧といくらの相違もないものも多いが美くしい看板や裝飾か、それらしい氣分を飾り立てゝ、燈ともし頃ともなれば、この店頭で、斷髮の女接待員(女給)が歌でも唱はふ程の御時勢だ。|(印畫の複製を禁ず)
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弧山を越えて (杭州)
葛嶺の頂上から、孤山を越えて大觀した西湖の西半である。|右を限る長堤は蘇東坡の名に因む蘇堤、湖心の相並ぶ二小島の左が湖心亭、その向ふ珊瑚礁のやうな島が小瀛洲である三潭印月はその島の奇勝だ。|『損兵百萬西湖上立馬吳山第一峰』と明の大祖を嘯かしめた吳山第一峰をも遠望する。|(印畫の複製を禁ず)
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畫舫新舊 (杭州)
新しい杭州市街の傍に、古い杭州の色が、まだその儘に取殘されてゐるのも見逃せない。|眞白い天幕を張つた蕭洒な、新畫舫と、重苦しく嚴めしい舊畫舫とのコントラスト、舊畫舫にはセーラーパンツと斷髮の囁きはなけれ、この古さの中にこそ李白や蘇東坡の姿があり(あり)と生きてゐるのだ。|(印畫の複製を禁ず)
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觀音慈祥 (杭州)
一體の觀音、仰いで溢るゝばかりの慈相を拜する傑作は、これを煙霞洞の中に見る。|煙霞洞は同名の山の南高峰下に在り、その洞口には煙霞古洞の題額があり、洞中幾多の佛刻を藏するが、何れも遠く六朝或は三國時代の開眼と言ひ傳へる。この佛像の彫刻の非凡さもさこそと肯かれる。|(印畫の複製を禁ず)
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山寺淸閑 (杭州)
行ひすました聖者のやうなこの淸閑の山寺は、舊名長耳相、現時その名を法相寺と呼ぶ山谷の一寺院だ、唐代天臺より來つて此所に住んだ僧法眞の庵の跡であつて、舊名長耳相が、法眞の耳九寸に餘つてゐたことに因むと聞けば、この心憎き許り取りすました山寺、一抹のユーモアを感ぜしめる。|(印畫の複製を禁ず)
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飛來峰塔 (杭州)
飛來峰の由緒を語る飛來峰塔は、創建の當時三十尺あり、浮刻の佛像と共に盛觀を極めたが、明の萬曆年間霜雨の為に崩壞したのを重修して今日に至つたもの、靈隱寺の貴重な寳物だ。|(印畫の複製を禁ず)
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淸泉觀魚 (杭州)
此の淸漣寺、遠く南齊の僧曇超の開山と傳へられて、その庭中淸泉あつて五色の鯉魚を養ひ、西湖十八景の一としてその名は更に高い。|正面魚樂園の扁額は董其昌の筆、廊下には尚歐陽修、康有為等の名筆あり、四時淸雅の遊客に賑ふてゐたのに、草鞋履きの兵隊がのさばるやうになつたのも正に御時勢だ。|(印畫の複製を禁ず)
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岳王墳墓 (杭州)
宋の南渡後時運非にして戰利あらざるに及び、適々媾和論者秦檜に謀られ、縛囚せられ遂に讒に死んだ盡忠報國忠臣の標本岳飛の為には、この大墳墓日夜香煙を絕たないのに反して、秦檜の徒は面縛跪坐の銅像となつてこの墓前に仕へ、尿の乾く暇もないとは、名義だけでも支那はまだ三綱五倫の國だ。|(印畫の複製を禁ず)
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山寺淸閑 (杭州の雲棲寺)
一筋の煙によつて漸く人の住む氣配を語る森林中の寺院部落だ。その名も雲棲寺と呼ばれる西湖々畔の幽邃境である。|寺を包むのは只欝蒼たる森林と淸楚の竹林宋代の創建と言ふ寺の由緒をたづねて、山道を辿れば、石疊の道が、かつ(かつ)の響を竹林に擧げる。|(一九三一撮影)(印畫の複製を禁ず)
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塵外の茶場 (杭州)
銘茶龍井の名は、既に世に久しいが、湖畔の山々を巡つて、思ひがけない山腹にその茶場を發見する時の心嬉しさ。とある日の山巡りに、日本に見やう程立派な茶園に迷ひ出て園主を訪ねたら、鮮かな日本語で、日本某高工出身だと答へられた時の驚きと喜び。塵外境にも人の緣はある。|(一九三一撮影)(印畫の複製を禁ず)
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山寺の秋 (杭州大慈定慧寺)
この寺は西湖々畔數十寺中の僅な一つではあるが、舊名大慈定慧寺、唐の開成二年の開山と言ふ古刹だ。西南に大慈山を負ひ、虎跑山の懷に跼つて、宋以後はその名も虎跑寺と呼ばれて來たが、秋風山頂を渡るこの頃となれば、山門の禪寺の門を叩く人も稀だ。|(一九三一撮影)(印畫の複製を禁ず)
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秋流れ行く (杭州の五雲山)
裸になつた樹々の梢を、斷雲が流れ飛ぶ五雲山の秋だ。からつと晴れた空には、昔からこの山を有名にした瑞雲の名殘もなく、訪ふ人もない山門の石段のあたりを、風に吹きまくられたわくら葉が、から(から)の響を擧げて走る秋だ。|(一九三一撮影)(印畫の複製を禁ず)
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松籟を輓歌に (杭州の納棺所)
死んでも尚故山の地下に眠り度いと言ふのが、各階級を通じての願望だ。かくてその歸葬迄の納棺所は、各地に、其地在住同鄉人會等の手で設けられてゐる。|松籟颯々たる西湖々畔のとある山蔭、この靜かな山莊に眠つた人達も、まだ故郷の夢を見てゐるであらうか。|(一九三一撮影)(印畫の複製を禁ず)
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斷橋を中心に (杭州)
遙なる錢塘江の岸邊から、人口八十萬の人家が、重り犇き合つて西湖に押迫つて來た市街の展望だ。だがこの町の成立を語るものは、雜踏の街でも淸冷の湖心でもない。楚々たる一本の橋、斷橋こそ展望の中心だ。斷橋の線は實に商業都市杭州と遊覽都市杭州との區分を示す考現分界線だ。|(一九三一撮影)(印畫の複製を禁ず)
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飲食店に見る (杭州)
街頭のとある下等飲食店の店頭である。|竹筒の箸入のやうな奇妙な看板が、先づ一切のこの店の狀態を表示するが、料理竈を取卷いた不恰好な椅子、テーブル、その上に日向ぼつこしてゐる鞋下、雜巾、料理皿。|杭州の町にも矢張り他の町の同樣の民衆生活がある。|(一九三一撮影)(印畫の複製を禁ず)
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弧山公園 (杭州)
前淸康熙乾隆兩帝の行幸を辱うした行宮の趾は、今孤山公園と呼ぶ小公園だ。規模は小さいが、園内の布置は概ね淸雅、昔から文人の巢だけに、多少文字に食傷しないでもないが、丘上の眺望は大いに優れ、一木一石にも故人の愛着が偲ばれる。|(一九三一撮影)(印畫の複製を禁ず)
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茶館にて (杭州)
茶好きでそれに街の雜踏を見ることの好きな支那人の為に、自然に發達したのが茶館である。茶館の役目は社交、商取引、職業紹介等と頗る範圍が廣い上に、暗の女の物色まで公然と行はれる場合もある。|所は杭州の下町、仕事あぶれの女達にも何となく杭州の色がある。|(一九三一撮影)(印畫の複製を禁ず)
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放鶴の跡 (杭州)
暗香浮動月黃昏|疏影橫斜水淸淺|宋代の詩人林和靖がこの名句を吐いた梅園の名殘は、梅樹既に枯れ朽ちた今日では尋ぬべくもないが、鶴を放つて悠々自適した亭趾は、古人の風懷と共に殘る。|(一九三一撮影)(印畫の複製を禁ず)
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漢民族化した蒙古 (定住蒙古人)
蒙古人と言ふ言葉は、何かしら今でも水草を逐ふ原始民族の姿を描かしめるが、その蒙古人にも、既に定住して漢民族化したものが多數であることを忘れてはならない。|この佳人の外觀に見よ。定住して部落をなす蒙古人の衣食住は、今日殆んど漢民族と區別し難いのだ。|(一九三〇撮影)(印畫の複製を禁ず)
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祭に向ふ人々 (蒙古人)
年一度のアガイ廟の祭が近付いて、附近の蒙古人部落からは、日に日に幾團かづつの參拜者が繰り出されてゐた。|廟のお祭は、彼等にとつて、年中最大の行事だ。沙漠の道に幾日の野宿を遠しともせず、老幼男女一家を擧げて馬車を急がしてゐる。|(一九三〇撮影)(印畫の複製を禁ず)
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廟に集りて (蒙古人)
幾日の旅を重ねて、やつとアガイ廟に着いた蒙古人達は、多くはかうした天然本來の天幕生活で御開帳の日を待つのだ。|本來の生活には勿論何等の屈託もない。廟前の廣場には、殺風景な中にも何となく和かな空氣が滿ち充ちる。|(一九三〇撮影)(印畫の複製を禁ず)
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喇嘛の館 (蒙古)
廟を司る喇嘛の館の物々しさ。建築の樣式こそ全く漢民族化してはゐるが、門上に仰ぐ蒙古文字に見る一つの神秘、一度この門を潜れば、何となく他の地上に見られないグロテスクな世界を見られるかの誘惑を感ずるのも私ばかりではあるまい。|(一九三〇撮影)(印畫の複製を禁ず)
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廟前の群集 (アガイ廟祭)
祭典の朝は、廟前の廣場に、吹きつのる風塵をも厭はないで、待ちあぐねた蒙古人達がもう地面に坐り込んで、御開帳今や遲しと待つてゐる。半分揚つた廟前の竿柱の黃旗、もう何となく物々しい嚴肅な氣分が一體を支配してゐる。|(一九三〇撮影)(印畫の複製を禁ず)
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祭典は始る (アガイ廟)
アガイ廟の司宰たる喇嘛が、札薩克喇嘛であるかそれとも單に大喇嘛と呼ぶべき階級であるかを明にしないが、とまれこの祭は內蒙古の蒙古人にとつて最大の年中行事である。|廣場は既に信者に埋つた、そして一段高い廟前の壇上は、僧侶と役人とで一杯だ。|(一九三〇撮影)(印畫の複製を禁ず)
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蒙古の王樣 (內蒙古)
アガイ廟は、科爾心左翼中旗、閑散和磧溫都爾親王の家廟である。だからこの祭典は、民衆の為と言ふよりも寧ろ王樣自身の先祖供養なのだ。この意味では附近の王樣達の社交集會の機會ともなつて、前淸時代の官服めいた服裝の王樣達が、威儀を正して祭典に一段の光彩を添へてゐる。|(一九三〇撮影)(印畫の複製を禁ず)
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蒙古人の顏 (內蒙古)
廟前の廣場に集つた蒙古人のスナツプシヨツトだ。服裝こそ漢民族化してしまつたが、顏には爭はれない蒙古魂が殘つてゐる。確に漢民族とは違つた顏だ。鐵木兒に從ひ成吉斯汗に率ゐられた人達の後裔だ。喇嘛敎が今や彼等を去勢してはしまつたが、まだ一抹精駻の氣が殘つてゐる。|(一九三〇撮影)(印畫の複製を禁ず)
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沙漠の苦行 (內蒙古喇嘛僧)
この砂塵吹き荒ぶ砂上に坐して、只管に經を誦する風態怪異の二箇の人物は、その纏ふ黃衣が語る「ゲルクバ」派の喇嘛僧である。|喇嘛敎は印度佛教直接の分派、だから印度の僧と同樣に、修行の為には先づ苦行をしなければならない。相恰枯れ衰へて、現在そのまゝ來世の姿でもある。|(一九三〇撮影)(印畫の複製を禁ず)
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街頭の苦行 (內蒙古喇嘛僧)
苦行は必ずしも砂上のみではない。街頭にも彼等の苦行の姿はある。文字通り破衣弊帽左手には一碗も捧げ、右手に携へた「マーニロルロ」と名くる佛具をくる(くる)廻し乍ら、誦經の音も高らかに、街頭に託鉢する喇嘛僧達だ。|これが喇嘛敎の今の姿ではあるまいか。|(一九三〇撮影)(印畫の複製を禁ず)
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蒙古包にて (內蒙古蒙古包)
遊牧蒙古人の移動家屋は之を包と呼び、その所在が殆んど蒙古に限られるので、蒙古包とも總稱される。内部は木製の骨組みで、外部に羊皮と氈とを張り、皮製の繩で縛つたものだ。|夏の夕、沙漠の平和な包に地平線から最後の光を投げた落日の餘光が、屋根に乾燥してある油菓を、キラ(キラ)と輝してゐた。|(一九三〇撮影)(印畫の複製を禁ず)
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宿場を求めて (滿洲里より呼倫池へ)
沙漠の旅人は、毎日宿場の溫い寢床を期待することは出きない。旅程の都合では、幾日も幾日も、行き暮れた草の上に、天幕を張るか車を停めて假寢を續けなければならないので、部落に近けば、人の香を慕ふて、何でも馬車を村へと急がせるのが常だ。|日がくるれば沙漠の闇は早い。旅人は頻に馬夫を急き立てゝゐる。|(一九三〇撮影)(印畫の複製を禁ず)
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物々交換 (內蒙古)
遊牧民の生活では、交易はまだ物々交換の域を一歩も出でない。かくて全く文明の恩澤から遠つてはゐるが、その遊牧民達に文明の風を僅でも注ぎ込んでくれるのは、利に敏い漢人と勇敢な露西亞商人達だ。彼等はあらゆる困苦と闘ひ乍ら、部落から部落へと、物々交換の旅を續けつゝ、文明の風を浸潤さして行くのだ。|(一九三〇撮影)(印畫の複製を禁ず)
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曠原の面影 (內蒙古)
大浪のうねりのやうな草原[ステツプ]、それが内蒙古の曠原の實相だ。望めども行けども、限りなき草地のうねりだけが續く。人に會ふことも稀であれば、人の住む部落を見ることは更に少い。かうした境界では、放牧の駱駄の群に巡り會ふてさへも、限りない喜を感ずる。|(一九三〇撮影)(印畫の複製を禁ず)
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大喇嘛の墓 (內蒙古)
蒙古人の殆んど生命を司るのが大喇嘛だ。その大喇嘛が死ぬとその死骸を火葬に附し、遺骨の一部は粉にし麵粉に粘りまぜて寺に納め、殘りの大部分は寺の附近に埋めて叮嚀な塔を建てる。|磚を階段式に組立てゝ造り、その層を九段とし、一見小ピラミツドに似てゐる。|(一九三〇撮影)(印畫の複製を禁ず)
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遊牧の民と (內蒙古)
家畜は蒙古人の唯一の財產だ。その家畜の大部は羊である。少きも數十頭多きは數百頭時に數千頭の羊群を率ゐて、轉々草と水とを求めて移動するのが彼等の生活だ。草と水とのある所に、包は組まれ、彼等の日課は始まる。山羊の乳、羊の肉、羊の皮、羊の毛、彼等の生活は皆羊と共に在るのだ。|(一九三〇撮影)(印畫の複製を禁ず)
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地の神の祠 (內蒙古の鄂博)
鄂博(オポ)と言ふのは蒙古の地の神であるあらゆる意味の生產神として、豐饒、繁殖、求子、發財、招財の神として崇拜され、時には旗の境界ともなり、又或は道路や渡河點の標識ともなる。その形式は多種多樣だ。地方によつて違ふ。此の雪の沙漠に突立つてゐるのは、柳條を束ねたもので、柳條鄂博と言ふべきものだ。|(一九三〇撮影)(印畫の複製を禁ず)
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道祖神(一) (內蒙古モリン廟)
粗面の砂岩又は凝灰岩の兩面に刻んだ神秘的な喇嘛の佛像で、喇嘛寺の附近や路傍、時には峠の上に設けられた一種の道祖神とも見らるべきものだ。旅行者は必ず臺座の處へ三度叩頭するのを例とする。|一面は溫和な菩薩、裏面は狂猛な秘佛が彫られてゐる。これは騎獅の菩薩だ。|(一九三〇撮影)(印畫の複製を禁ず)
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道祖神(二) (內蒙古モリン廟)
騎獅の菩薩の裏に刻まれた閻王とも言ふべき魔神だ。無恰好な足と膝とに注意して見ると、喇嘛敎特有の性的神が繪探し的に織込まれてゐるやうだが、纏つた腰皮が中央に垂れてゐるのも、ガーネシヤの象鼻を以て陽根を表徵してあるのと同樣の意味であらうか。|(一九三〇撮影)(印畫の複製を禁ず)
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町に出た蒙古人 (內蒙古海拉兒)
草原にゐては水草を逐ふより外に知らない蒙古人も、今や漢民族の影響を受けて、或は定住して漢民族化し、或は包のまゝで聚落して漢民族化さんとしてゐる。醫藥を知らなかつた彼等も、漢民族を通じて草根木皮のみでない新藥をも知つた。だが矢張り蒙古人だ。一抹精悍の野人の氣は、町に出た人達にも殘つてゐる。|(一九三〇撮影)(印畫の複製を禁ず)
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朔北の風 (內蒙古)
內外蒙古の沙漠は、名にし負ふ蒙古風の本場である。南に向ふ風は、灰のやうな、胡砂を吹きまくつて、萬丈の黃塵に天地は全く暗迷となり、この風の餘威は、時に遠く南支那や日本内地にまで及ぶのだ。|秋から冬にかけての蒙古の旅人も、皆この風に惱まされる。|(一九三〇撮影)(印畫の複製を禁ず)
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風に震ふ魔除け (內蒙古モリン廟)
西藏式建築の喇嘛廟の屋上は、大抵一部露臺となり、その露臺の緣は頑丈な煉瓦の塀となつて、その上には、塔や三叉鉾や、時には法輪等の裝飾が夫々取付けられる。それは何れも魔除けの意味を持つてゐるのだ。|秋更け、沙漠に雲脚迅き頃となれば、その魔除けさへも、砂塵の風に震ふのだ。|(一九三〇撮影)(印畫の複製を禁ず)
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曠原の人の家 (內蒙古)
蒙古沙漠の秋の日は慌しい。|旅人は午後の三時と言へばもうその日の宿を定めねばならない。行手に見出した蒙古包の一つに、心躍りつゝ馬車を急がせて、一夜の宿を賴めば、若夫人や娘達までが快く迎えて、何くれと心から歡待してくれる。それが、この世界の綻だ。|(一九三〇撮影)(印畫の複製を禁ず)
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牛糞の山 (東蒙古)
風も凍るであらう沙漠の冬を、凌ぐべき唯一の燃料は、乾燥した牛糞である。かくて一塊の牛糞も、このあたりでは珠玉の如く取扱はれ、その貯藏の多少は、家畜の大小から、更に財產の多少にまで演繹される考現資料であるが、春から秋までの蒙古部落の周圍は、この乾燥牛糞によつて、山が築かれるのだ。|(一九三〇撮影)(印畫の複製を禁ず)
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搖籃にて (東蒙古)
蒙古の子供の生活、我々は今まで殆んど、聞く機會を持たなかつた。然し放牧民であらうと定住民であらうと、幼兒の哺育にかけては、他の東洋人と大した相違もない。只その成長後の馬上生活を暗示するかのやうに、一樣に搖籃に育まれてゐるのが、特長と言へば特長だ。|(一九三〇撮影)(印畫の複製を禁ず)
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駱駝の牽く車 (海拉爾)
蒙古人の生活も、今日では、矢張り町と離れることの出きないものとなりつゝある。海拉爾の町へは、駱駝の牽く原始的な車で、沙漠から出て來る蒙古人の數が、日に日に多くなつて行く。|もうこの町では、ロシヤ語の看板、黑煉瓦の支那家屋、そしてこの駱駝車が、一つの調和なのだ。|(一九三〇撮影)(印畫の複製を禁ず)
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忘れられた民族 (於海拉爾ブリヤート族)
北滿に關して忘れられた民族の一つ、ブリヤート人がそれだ。蒙古人の一分派とも言へやうが、多くは小興安嶺山脈の一帶に居住し性質は蒙古人より更に勇猛、支那領に在るもの今日約二十五萬と推定される。海拉爾の街に時折見る彼等の姿、獨得の牛車、色とり(どり)の衣服、鈍重な容貌、蒙古人と良い取組ではある。|(一九三〇撮影)(印畫の複製を禁ず)
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曠野の大湖 (內蒙古ダライノール)
達賴諾爾[ダライノール]は、東蒙古沙漠の一部を占むる海のやうな大湖水である。蒙古語では、達賴は海、諾爾は池を意味し、この湖の名は、取りも直さず沙漠人の水に對する驚異を表現するものだ。|樹一つない沙漠の湖の畔ではあるが、堅氷解くる春ともなれば、岸邊には馬蓮草[ネヂアヤメ]の花咲き亂れ、形ばかりの舟さへも浮ぶのだ。|(一九三〇撮影)(印畫の複製を禁ず)
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農耕への進み (內蒙古ケルン川)
放牧の生活から定住生活へ、牧畜から農耕へ、蒙古人の生活にも日に日に變革が生れて來る。漢民族や露西亞人に接した蒙古人達が河畔の平地に定住して、聊の農業を始めてから、もう相當の年月が經つた。所はケルン川の畔、蒙古人の文化への歩みを語るかのやうに、揚水水車がのんびりと廻つてゐた。|(一九三〇撮影)(印畫の複製を禁ず)
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沙漠の漁場 (內蒙古ケルン川)
達賴諾爾やケルン川は、沙漠での水運灌溉の大宗脈であるがかりでなく、又この附近での豐富な漁場である。|露西亞人達は蒙古王からこの漁場を賃借して、この水から豐富な魚類を引揚げ、冬に入れば之を凍結させて、西伯利亞から遠く歐露にまで販賣してゐるのだ。|(一九三〇撮影)(印畫の複製を禁ず)
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土壁の城門 (泰來)
馬の齒並のやうな土壁の銃眼だ。その不格好な門齒の隙間から見る泰來市街だ。|洮昂線の重驛となつて、人口二萬五千を誇る泰來は、沙漠の空氣を震はした汽車の汽笛によつて、一晩の中に湧き上つた町だ。秘さうにも秘せない町の由來は、先づこの粗末な城門に語られる。|(一九三一撮影)(印畫の複製を禁ず)
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北滿の開拓者 (泰來)
北滿の開拓者は、蒙古人でも露西亞人でもない。山東から河北から、年々移動して來る六十萬八十萬の移住民達である。|耕作には先づ家だ。泥の家屋が先づ塗り上げられ、その家が四五軒集れば、銃眼を持つ物見櫓が築かれ、やがて沙漠に一筋の道が踏みつけられる。|(一九三一撮影)(印畫の複製を禁ず)
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村の發達 (泰來)
移住民達が築き上げた數軒の部落も、時と地の利に惠まるれば、土壁は次第に村全體を包み、そしてその土壁は、日に日に擴つて行く。土壁の四隅に銃眼付の物見櫓が出來上れば、もう立派な町だ。|泰來城の一部は、まだ明にこの村の發達階梯を語つてゐる。|(一九三一撮影)(印畫の複製を禁ず)
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結氷近き嫩江
北滿で一番恐れられるのは冬であり、又喜ばれるのも冬である。|灌溉の宗脈として沃野を潤す嫩江も、一面にはその多岐の水流が一帶の交通を妨げてゐるが、朔風沙漠を渡る冬ともなれば、堅氷は何萬貫の荷重にも耐えて、穀類を滿積した牛車の列が、この氷上を、轢々の響を擧げて、絡驛として鐵道に走るのだ。|(一九三一撮影)(印畫の複製を禁ず)
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平原驛舍 (昂々溪)
洮昂鐵道と言ふのは、沙漠に引張られた二本の平行鐵線であり、傍に置き忘れられたマツチ箱が、その驛舍である。平原貫通を目標としたこの鐵道は、正確に部落を縫ふてはゐないから、驛舍は必ずしも部落の近くではないのだ。|東支線と洮昂線のクロス地點、昂々溪驛さへも、さうした驛舍の一つである。|(一九三一撮影)(印畫の複製を禁ず)
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思ひ出の旅館 (昂々溪)
滿洲事件の導火線となつた中村大尉事件を知らう程の人は、之と行を共にし難を同ふした井杉曹長の名をよもや忘れないであらう。この旅館こそ、昂々溪に營まるゝ唯一の邦人旅館昂榮館であり、門前の人物は、即ち在りし日の主人公井杉曹長その人である。|(一九三〇撮影)(印畫の複製を禁ず)
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齊々哈爾と言ふ所 (齊々哈爾)
これは勿論齊々哈爾目貫の通りではない。ひつそり閑とした中にも落着いた屋敷町らしい風格が、古都らしい片影を見せてはゐるが齊々哈爾の全般ではない。然しこの通りの興味は、家の基礎よりもずつと低い街路である滿洲の部隊は、雨季の泥濘を恐れて、部落内の道は川のやうに低い。齊々哈爾も矢張りかうして出來た町の一つだ。|(一九三一撮影)(印畫の複製を禁ず)
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殘された沃野 (齊々哈爾)
四百三十七萬方哩の國土を、地大物博と誇號する支那だ。だが四千年の歷史と四億の人口に摺減して、可耕平地の餘分と言ふものはもう殆んど殘されてゐない。東支線以北の平野が、今日では殘された唯一の可耕平地だ。|齊々哈爾城外に見る。北方に展開された平原には、既に點々たる部落こそあれ、一眸限りなき沃野の全貌が光る。|(一九三一撮影)(印畫の複製を禁ず)
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雪の山路 (興安嶺)
北滿に盤据する興安嶺山脈も、北方小興安嶺と名づくる一帶は、僅な低起伏の山地帶に過ぎないが、大興安嶺山脈は、北滿の地勢を決定する天山山系の大支脈であり、滿洲と蒙古とを限る區劃線である。|一年の半を雪に埋れてはゐるが、山は森林に惠まれて一箇の別天地を形成し、東支鐵道はこの山脈を橫斷して走る。|(一九三一撮影)(印畫の複製を禁ず)
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薪を焚く汽車 (東支鐵道)
亞細亞と歐羅巴を繫ぐ唯一の鐵道、その素晴しくハイカラな鐵道の機關車は、薪を焚いて走る。薪を滿載し、煙突の上には火の子防ぎの金網を張つた機關車が引張るのだ。|だが失望するのは早い。驛でもない所で水が切れたりすると、機關士が馬穴で水を汲み込んで又走り出す程の、大陸氣分の鐵道なのだ。|(一九三一撮影)(印畫の複製を禁ず)
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紀念碑に見よ (葫芦島)
葫芦島築港の念願は、東北支那官憲にとつて一日や一年の計劃ではなかつた。既に一九〇八年趙爾巽總督時代の撰定に始り、米國が嘗て提唱した錦愛鐵道さへもこの地を基點とする計劃であつたと聞けば、世人もその歷史の古さに驚くであらうが、萬難を排しての實際の起工は、一九三〇年のことである。|(一九三二撮影)(印畫の複製を禁ず)
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工場に見る規模 (葫芦島)
葫芦島は平寧線(奉山線)連山驛から七哩半の支線の端に位する一驛である。築港を目標とするこの支線は既に五六年以前に完成されてゐた。然し外人請負業者との間に工事契約が結ばれ、張學良以下東北の主腦全部參列の下に起工式が華々しく擧行されたのは、一昨年のことであつたが、世間にひた隱しにされた築港の規模は、かくも壯大なものであつた。|(一九三二撮影)(印畫の複製を禁ず)
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港の全貌を見る (葫芦島)
葫芦島この半島によつて南北二灣に區分される。北海は干潮時三、四呎の水深に過ぎないから、埋立てゝ市街又は工場倉庫用地とすべく、右に見る南灣こそ水深十八呎乃至二十七呎、巨艦をも入るべき良港である。山勢還繞して波濤を防ぎ、然も凍ることなき天然港との折紙をつけられて今日に至つた。正面の建物が其の事務所である。|(一九三二撮影)(印畫の複製を禁ず)
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南港防波堤 (葫芦島)
港の天然條件や規模はともあれ、工事の進行過程はまだ驚く程ではない。港として出來上つたものは、この一本の防波堤と若干の埠頭と、そして幾本かの引込線だけである。この規模に於ても船は既に入港しつゝある。荷は主として石炭であり、右端に見えるその貯炭場だ。|(一九三二撮影)(印畫の複製を禁ず)
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築港工事風景 (葫芦島)
東北軍閥の意氣込みにも似ず、築港工事は第一に資金と設計との矛盾に衝突がつた。當時世間では内容が分らないだけに、樣々の揣摩憶惻の風評を傳へたが、今見る築港風景はそのギヤツプを如實に物語るかのやうでもある。方塊工場の鐵塔の高さにも似ないあたりの淋しさ―所は勃海の冬の海邊だ。|(一九三二撮影)(印畫の複製を禁ず)
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北灣は凍る (葫芦島)
水深僅か三、四尺の北灣は、冬と共に直に凍結する。この北灣の利用如何は葫芦島の將來にとつて相當重要な問題であらう。|方塊工場背面の丘陵上から俯瞰する北灣の凍てついた海の廣さ、思ひやうによつては、葫芦島に將來は隨分有望に約束されてゐるやうでもある。|(一九三二撮影)(印畫の複製を禁ず)
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南灣の冬 (葫芦島)
嚴冬一月の葫芦島南灣の海面だ。西方秦皇島も東方營口も、何れも十二月一月二月の三箇月は氷結し、或は氷結に脅威されるのに、葫芦島は僅に免れる唯一の例外だ。|浚渫船のあたりには既に幾寸の氷も見えるが、廣々とした海のあたり、波一つない良港の片影が見へる。|(一九三二撮影)(印畫の複製を禁ず)
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日章旗の錦州 (錦州)
葫芦島錦州間は僅々三十三哩だ。|錦州こそ葫芦島開港後の繁榮を約束された第一の近接都市だ。米國の計劃した錦璦鐵道はこの地點に始り、葫芦島はその計劃せられた外港であつた。|千年の古塔を持つその錦州市街の軒々には今や日章旗が揭げられてゐる。|(一九三二撮影)(印畫の複製を禁ず)
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關帝廟の猿像(一) (錦州)
錦州城廂自治會となつた關帝廟の門前には恰度寺廟入口の守護神のやうに、この猿像の馬繫ぎが置かれてゐる。臺座は蓮華の模樣を表し、下方には有孔錢紋が彫り込んであり、然もこの牝猿は小猿を負つた所は、母性愛の象徵としての崇拜像でもあらうか。|(一九三二撮影)(印畫の複製を禁ず)
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關帝廟の猿像(二) (錦州)
これはその對の一つだ。|支那では猿は矢張り吉祥破邪の意に傳はれて、日本と同樣『去る』の意が寓せられる。牡猿で桃實を兩手で抱へてゐる所は、左右一對で牝牡と小猿に桃を配して三位一體の意を表はしてゐるのであらう。猿と桃とは吉祥的に離れられないコンビネーシヨンだ。|(一九三二撮影)(印畫の複製を禁ず)
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耕耘は始る (滿洲)
滿洲の五月だ。引き伸されるやうな若葉と共に、播種の時季は迫つた。村の男と言ふ男は、皆畑に苅り出される。|眞黑な土塊が、御粗末な鋤の刃先で、ボクリ(ボクリ)と掘り返されて行く後から、その同じ綱の端で、二本の棒が畝を立てゝ走る。|(一九三一年撮影)(印畫の複製を禁ず)
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種播き (滿洲)
一望限りなき平野だ。|白光る雲、空一杯の雲に雲雀が點々してゐる滿洲の五月だ。|種播きは始つた。今のこの平野は、馬糞に包まれた種大豆を振り落す手で、地平線を斜に掻き撫でゝ行く男だけの姿だ。|(一九三一年撮影)(印畫の複製を禁ず)
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除草の笠々 (滿洲)
息づまる程の草いきれ|眩しい程の陽の光|七月から八月への滿洲の夏だ。|一面の大豆畑を、三角の草帽子の一團りが風もない綠の葉の海に、僅の波を立てゝ退つて行く。|(一九三一年撮影)(印畫の複製を禁ず)
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収穫の庭 (滿洲)
秋と共に、苅り取られた大豆は、驢馬の牽く石のロールにぐた(ぐた)に蹂みにじられて、もう既に枝を離れた。|ポプラの葉を颯々と鳴す初秋の風に、收農場の隅では風撰が始つてゐる。|紺碧の空には、渡鳥の群も流れて行く。|(一九三一年撮影)(印畫の複製を禁ず)
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先づ糧棧に (滿洲)
百姓の手から商人の手に|そして麻袋に詰められた大豆は、一先づ五頭引八頭引の馬車を壓して、糧棧の庭に集められる。|此所は來る日も來る日も大豆の洪水だ。囤積も一杯だ。野積も一杯だ。|北滿にはもう冬が歩みよつてゐる。|(一九三一年撮影)(印畫の複製を禁ず)
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混保の檢查に (滿洲)
糧棧の庭を埋めた大豆は、やがても寄りの停車場に運ばれ、海の外の或は南の町の買い手を待つ間を、すつかり一定の標準に包裝を整へて、混合保管の手に預けられねばならないのだ。|構内一杯に持ち込まれた大豆は、先づ嚴重な檢查を受けねばならない。|(一九三一年撮影)(印畫の複製を禁ず)
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廣場を埋むる山 (滿洲)
二重三重の土囊を築いた陣地のやうなこの構内の堤は、混合保管に託された大豆の山だこの山々は、日一日と構内を埋めて、南へ東への貨車の荷繰を待つてゐるのだ。|冬は既に來た。|大豆の山は、この日一日の寒さと共に、袋を積み重ねて行く。|(一九三一年撮影)(印畫の複製を禁ず)
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油房の構内に (滿洲)
買手を發見した大豆は、何百哩の鐵路を南へ南へと流れて、その一部は油を搾らるゝ為に油房の構内へも流れ込む。|煉瓦建の工場に運び込まれ、蒸氣で溫められ、水壓機で搾られ、油がこのタンクに詰められてしまへば、大豆の一代記は既に終末だ。|(一九三一年撮影)(印畫の複製を禁ず)
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豆粕となりて (滿洲)
粕は粕の用途へ。|水壓機の中で油に置き去られた大豆の殘骸は、違つた姿で、更に違つた役目を負はされて、工場外に運び出される。|荒つぽい豆粕の格好は、その五十斤の重さを七枚八枚と肩の上に積み上げて行く苦力の力と良いコントラストだ。|(一九三一年撮影)(印畫の複製を禁ず)
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豆粕も混保に (滿洲)
豆油は豆油の混合保管に。|豆粕は豆粕の混合保管に。|多くはこの形のまゝで日本内地に送られ、肥料や家畜飼料となる豆粕は、その船積迄を矢張り混保へ寄託される。|倉庫に溢れた粕の山が、野積場へも日毎に積まれて行く日は流石に慌しい。|(一九三一年撮影)(印畫の複製を禁ず)
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街の發達に見る (奉天)
元代に始る瀋陽の名が、淸初盛京となり留京と寂れ、淸末奉天と呼ばれ更に近く學良によつて瀋陽を再襲し、今や又奉天と改められた幾變遷の歷史は、この內城の城壁と、その城門から食み出して遂にその外に又一つの邊城を必要としたこの關外の發達に、先づ視なければならない。|(一九三二年撮影)(印畫の複製を禁ず)
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城門の武備 (奉天)
長くこの城を東北軍閥の本據として誇らしめたものは、養ふ所の麾下幾十萬の兵であり人民の膏血を搾り取つた幾千萬元の財貨ではあつたが、更に壁上には野砲の砲列をも敷くべく、銃眼を守れば敵の一兵をも入らしめざる城壁城門の至らざるなき武備も亦、その一つには違ひなかつた。|(一九三二年撮影)(印畫の複製を禁ず)
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城壁の近代風景 (奉天)
雨水のやうな時の流れが、城壁の漆喰の中にも食ひ入つて、その一角が地響を立てる崩れ落ちる日と共に、洋車や馬車や自働車の、喧しい都會騷音の合奏の中で、街は日に日に近代化して行つた。城壁を越える電線がそれだ。コンクリートの舗道がそれだ。更にシヤンデリヤ風の街燈がそれだ。|(一九三二年撮影)(印畫の複製を禁ず)
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街の洋式化 (奉天)
城内の商賣もその時代の浪に乘つて、洋化の一途を辿つて來た。看板や店頭裝飾に、支那固有の色がまだ(まだ)取り殘されてはゐたが、四層樓、五層樓のデパート、銀行、ホテル、飯館子が、蜘蛛の巢の電線を張り巡らした電柱の頭を凌ぎ越えて、築き上げられ磨き立てられて行つた。|(一九三二年撮影)(印畫の複製を禁ず)
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看板も新に (奉天)
瞬く間に人力車夫の帽子までを中折帽として鳥打帽とした洋化の浪は、馬車を自動車に乘換へた軍閥資本主義の餘勢に煽り立てられ、その勢の赴く所は到々津浪となつて、皮肉にも眞先にその軍閥自身を叩き倒し、颱風一過の街の跡には、舊督軍公署の看板が名も奉天省政府と書換へられてゐた。|(一九三二年撮影)(印畫の複製を禁ず)
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新國旗の下に (奉天)
今の奉天にとつては、市政暑公は更に新しき存在だ。軍閥の手先となつて舗道のセメントの減り代を、通行人の一人一人から、その場ででも取り上げ兼ねなかつた苛政が、輝しい新國旗の下に甦生したのだ。新市政擔當者の第一のモツトーは、何よりも市民負擔の輕減だ。その片鱗を、壞れても繕はない二階の鐙戶に見ると言はふか。|(一九三二年撮影)(印畫の複製を禁ず)
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舊盛京片影 (奉天)
洋化の嵐に吹きまくられてゐたとは言へ、舊きもの總てが毀たれたのではない。淸朝の舊宮殿は、依然として代表的存在を誇つてゐた。かくて東西牌樓の嚴しさが、マカダム道路と調和し、大淸門の屋根が、電線のたるみに調子を合せてゐる間に、溥儀氏執政就任の春に再會したのだ。|(一九三二年撮影)(印畫の複製を禁ず)
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城の監視者 (奉天郊外)
城を圍る時代の變遷や人間の浮沈を、瞬きもしないでいつもじつと見續けて來たものゝ一つは、郊外法輪寺の、この護國塔俗稱喇嘛塔の法輪だ。|軍閥崩壞新國家建國の春は廻つて來た。この塔は、吹き荒ぶ北風の中に突立つて、雪を冠つた儘、今日もじつと城内を見つめてゐるのだ。|(一九三二年撮影)(印畫の複製を禁ず)
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街のオブザーバー (奉天ヤマトホテル)
滿鐵附屬地のヤマトホテルは、法輪寺の喇嘛塔に對立する新奉天の眼だ。甦生奉天の出產から發育を視る為に、紺い眼、黑い眼、白い眼、紅い眼の幾十幾百が、この窓から覗いてゐたことか。いや今でも窺いてゐることか。窓の一つ一つが、夫々に違つた眼鏡のレンズだ。|(一九三二年撮影)(印畫の複製を禁ず)
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春を待つ心 (奉天)
軍閥が崩れ陷ちやうと新國家が興らうと、喇嘛塔の法輪程にも、ホテルの窓程にも、關心を持たないでゐる人々の多さよ。|春が來ることさへも、只懷の溫さ加減からだけだと思ふ街頭の人々だ。紙鳶のいろ(いろ)だけが、只僅に春待顏だ。省政府の幹部が誰であらうと、この人達にとつて、凧の繪程の興味もあるであらうか。|(一九三二年撮影)(印畫の複製を禁ず)
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哈爾濱の鳥瞰
遠き地平線、廣き野|野つ原たゝいてロシヤ人さんは|ハルビンこゝだと家たてた(雨情)|シベリアの東幾百千里、「遠き都」とこゝを名づけて東方徑略の策源地とした皇帝[ザー]の夢を想へ。踏む土に野心は今も籠つてゐる。|(一九三一―三二撮影)(印畫の複製を禁ず)
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哈爾濱市街
北滿經濟の中心、日本人には享樂淫蕩の裏面のみが餘りに知られてゐる。さあれ滿洲第一のモダンな町だ。自働式の電話など東京より十年位早く出來た。滿洲の秩序回復と共にその隆盛は想像に餘りがある。|(一九三一―三二撮影)(印畫の複製を禁ず)
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哈爾濱停車場
伊藤博文公遭難の處として邦人には知られてゐる哈爾濱の停車場、かねては鎌と鎚とを組合せた勞農の旗が飜つてゐた。今滿洲國の新五色旗が陽に輝いてゐる。|(一九三一―三二撮影)(印畫の複製を禁ず)
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靴みがき (哈爾濱)
靴磨きは通る人の足ばかり眺めて汚れた靴を探してゐる。これも商賣の一つだ。陽あたりよき街路の並木の下、暫く憩がほしい時人は一寸脚を投出して見たい氣にもなる。そこで商賣は成立する。|(一九三一―三二撮影)(印畫の複製を禁ず)
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パンを賣る人 (哈爾濱)
曾て皇帝[ザー]の威盛なりし時は大官であつた、貴族であつたといふ人々にして今極東に窮乏の日を送つてゐる者が多い。街頭にパンを賣る人々の中にも夫等の人々は雜つてゐる。一榮一落を常とは謂へ餘りに甚しき世の變轉である。|(一九三一―三二撮影)(印畫の複製を禁ず)
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舊敎寺院 (哈爾濱)
露西亞本國は宗敎を壓迫する、宗敎は阿片なりと叫ぶ。こゝ國を逐はれた白系の民は、やるせなき心を唯敎會の十字架に寄せる。―秋高き寺院の塔の上にして時をうつなる鐘の音かな。―誰のか佳きか否かを知らぬ。たゞ其氣持が旅人を涙ぐませる。|(一九三一―三二撮影)(印畫の複製を禁ず)
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志士の碑 (哈爾濱)
日露戰爭の砌、東淸鐵道爆破の特別任務を帶びて潜入した沖、橫川兩氏の事蹟は語るに餘りに有名である。哈爾濱の郊外、碑を遶る草地に咲く花もこの春は常にも増して笑み輝くことであらう。|(一九三一―三二撮影)(印畫の複製を禁ず)
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公園情景 (哈爾濱)
冬も出る夏も出る、烈しい寒暑にもめげずにロシア人は外を歩いて新鮮な空氣を樂しむ哈爾濱の幾つかの公園、殊に春から夏へかけての午後から夜へ、そこには追放の人とも見えぬ樂しい情景が展開される。|(一九三一―三二撮彫)(印畫の複製を禁ず)
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松花江 (哈爾濱)
松花江[スンガリー]は哈爾濱情景に無くてはかなはぬものゝ一つである。結氷せる冬の河上は橇を行るもよし、黄昏長き夏の夕に一日の炎熱をこの河畔に洗ふことは哈爾濱人の最も好むところである。|(一九三一―三二撮影)(印畫の複製を禁ず)
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漂浪の唄 (哈爾濱)
世界の隅から隅へ隈もなく辿り行く流浪の民、彼等と其一切の家財とを積んだ車はシベリアの野を貫いて極東に流れて來た。年毎に變り行く街に變りなき姿を見せて彼等は悲しき漂浪の唄を歌ふ。|(一九三一―三二撮影)(印畫の複製を禁ず)