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普陀乘之廟 (熱河 承德)
普陀宗乘之廟は西藏の達賴喇嘛の住むボータラ廟をまねて造つたと言はれ、從つて達賴喇嘛派の寺である。ポータラを漢字で書いたのが布達拉であるが、その漢字の昔から今では俗にプーダラ廟などど呼んでゐる。|乾隆三十六年(西紀一七七一)が母后八十歳の賀に當るといふので、その祝賀のために蒙古、靑海、新疆方面から蕃族の王等が來るので、それを歡迎する意味で建てたといふ。(印畫の複製を禁ず)
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靜かな山門 (熱河 承德)
普陀宗乘之廟は承德一の大寺だ。敷地の廣いこと、建物の多いこと、大きいこと、すべて此の寺に及ぶものはない。從つて淸朝華やかだつた時には、ラマ僧の數が五、六百を下らなかつたのに、今では十數名の僧が居るのみだ。|山門は閉じたままで、内庭は牛の放牧場になつてゐる。この山門は西藏式に支那風を加へた特異な形式である。(印畫の複製を禁ず)
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五塔門 (熱河 承德)
普陀宗乘之廟は正面の山門の奥が碑閣、その次が此の五塔門になつてゐる。|西藏語でラマ塔のことをチヨテンといひ、その形態は必しも一樣でなく、寫眞にも出てゐるやうに五種ともにな異つてゐるが、しかし總ての塔は五部に分れ、下から地、水、火 風、空の所謂五大を現はしてゐるといふ。五大といふのは宇宙萬物を構成してゐる五大要素である。(印畫の複製を禁ず)
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瑠璃牌坊 (熱河 承德)
五塔門から可なり離れて北方に此の牌坊がある。五塔門の前には石象があつたが、此處には石の獅子が一對置かれてある。|三彩の瑠璃瓦を以て造られ、色彩の乏しいラマ寺では美しいものの一である。中央の額に普門應現と刻まれてゐる。俗衆と僧侶とは此の牌坊を以て區劃され、これより北へは俗衆が入ることを許されなかつたと聞く。(印畫の複製を禁ず)
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境內點景 (熱河 承德)
山傾斜面を利用して諸建築が點在する。牌坊附近から次第に坂路となり、道には石が敷きつめてあるが、それも整然たる切石を一直線に敷いたのではなく、自然石を雜然と置き、道も曲がりくねつてゐる。|道の所々、建物の前や橫などには自然の岩を積み重ねて、淸朝時代によく見る自然らしからぬ築山が設けてある。しかし四角な建築ばかりの寺では、斯る道と築山とが感情を柔げるのに非常に效果的だ。(印畫の複製を禁ず)
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塔は本來、舎利(骨)と入れる墳墓であるから、下が臺のみの方が本來の意味をよく傳へてゐるのであるが、しかし塔がラマ敎の象徴となるに至つてからは、それを應用して門としたのだ。卽ち下十方の衆生を往來せしめ去來往還一道であつて、迷悟これ一如の妙理を體得せしめんためといふ。(印畫の複製を禁ず)
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大紅臺を望む (熱河 承德)
普陀宗乘之廟の本殿ともいふべきものは、大きな城とも見江る建築の中にある。この城壁のやうな壯大な建築は下方が石造、上方が煉瓦造りで、表面に紅色の漆喰が塗つてある。それで大紅臺といふ名がつけられ、又蒙古語などから採つた言葉で都綱、即ちヅガンとい ふ字が用ゐられる。|このやうな城壁式の建築は全く西藏式であつて、支那では見られない偉觀である。(印畫の複製を禁ず)
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大紅臺近影 (熱河 承德)
大紅臺は驚くべき大きさではあるが、しかし文字通り臺であつて、內部を使つてゐるのは、眞實の窓が開いてゐる上方の三層分だけである。|正面壁の中央には瑠璃瓦で造つた美しい佛龕が六層あり、その頂上にも亦瑠璃瓦製の彫刻が置かれてゐるので、瑠璃瓦全體で一つの佛塔のやうな形を呈してゐる。色のあせた紅色の壁の中で、これが唯一の彩色美だ。(印畫の複製を禁ず)
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權衡三界 (熱河 承德)
大紅臺の最も高い處に金色の瓦が輝く建築が二つ見江る。東の八角亭が此の寫眞、西方の一層高い所に六角亭が聳江てゐる。|八角亭の額には權衡三界とあり、中に佛像をまつるその左にある一棟の建築は御座樓この南には戱樓があり、劇を見下ろすことが出來るやうになつてゐた。今では大半破壊して壁に柱のあとが凹んでゐる。(印畫の複製を禁ず)
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歡喜無上 (熱河 承德)
大紅臺の內部は、前記の通り三層分だけ使つてゐる。內部の周圍に三層の樓があつたがこれは破壞して一物も止めない。中央には萬法歸一般と呼ぶ金色瓦の本堂が昔ながら姿を存してゐる。|內部には黃敎宗祖の宗喀巴その他の佛像をまつる。一隅には八角寶塔、寫眞のやうな歡喜佛も見江る。歡喜佛は印度から西藏へ輸入されたものだが、西藏で一層グロ味を加へたものだ。(印畫の複製を禁ず)
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須彌福壽廟 (熱河 承德)
須彌福壽廟は普陀宗乘之廟の東南、獅子溝の諸廟の中で離宮(避暑山莊)に近い所にあり、班禪喇嘛(パンチエン)が住む西藏の札什倫布廟(ターシロンプ)廟をまねて造られたといふ。西藏語の札什は漢語の福壽、倫布は須彌山を意味するので、札什倫布を譯して須彌福壽廟と名づけたが、しかし西藏の名稱をそのまま採つて札什倫布廟と呼ぶこともあり、又新宮(シンクン)とも俗に言はれるゐる。(印畫の複製を禁ず)
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橋と山門 (熱河 承德)
須彌福壽廟は川に望み南面して建れられてゐる。尤もこの川は兩期になると漸く僅かの水が流れてゐる程度に過ぎない。それでも川には過ぎた立派な石橋が架けられて居り、これ程完全に近く殘存してゐる橋は他に少ない|廟の規模は普陀宗廟之廟に比べると可なり小さく、従つて山門も亦小さい。山門の北に建ち並ぶ諸建築も山門に著しく接近して奥行きの少なさを感ぜしめる。(印畫の複製を禁ず)
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閣碑 (熱河 承德)
頂彌福壽廟の建築配置は普陀宗乘之廟に似た点が多い。山門の北には碑閣があり、閣内に乾隆帝御製の文章を刻んだ碑が立つ。|碑文には先づ黃教が宗喀巴によつて興こされ、次いで二大弟子があり、一方は今の達賴喇嘛、他の一方は今の班禪爾德尼(エルデニ)に及んだこと、今回班禅喇嘛が招かないのに來京し、帝の七十に賀に当るのを慶祝しようとするので、玆に寺を建てたこと等が述べてある。時は乾隆四十五年のことである。(印畫の複製を禁ず)
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斜めに見た廟 (熱河 承德)
東門外から須彌福壽廟を大觀した所だ。東門はアーチが一つの小さな門、門の左にあるのは下馬碑、門の右方に地上低く屋根を覗かせてゐるのは僧房。|門の北に近接してゐるのが大紅臺と御座樓の一廓、小佛塔の頂部がチラと姿を出し、その右に右大破した屋根が見江るのは生歡喜心殿だ。|普陀宗乘之廟は丘上に城のやうに高く聳立してゐたが、この廟はそれほどの威壓を伴はぬだけに親しみを覺江しめる。(印畫の複製を禁ず)
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牌樓と都綱 (熱河 承德)
右が瑠璃牌樓、左が大紅臺、卽ち都綱(ヅガン)だ。山門、碑閣の順で次第に北へ進めば、急に高臺となり、その入口に牌樓が立つ。それは普陀宗乘之廟と同じく、總持佛境と書かれ、外觀も亦近似してゐる。大紅臺は普宗陀乘之廟に比べると遙かに小さく且つ低く、すべて實用的な三三層樓で、窓毎に瑠璃瓦の飾り屋根をつけてゐるのが特徴である。これらに接觸して東(寫眞では向ふの方)にも同形の紅臺があるが、ここが御座樓の一廓だ。(印畫の複製を禁ず)
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都綱の內側 (熱河 承德)
都綱卽ち大紅臺は四角な紅壁をめぐらしてゐるが、その內側に沿うて木造の三層樓が設けられ、その屋根がれ平で甎を敷きつめてゐるので、上部を步くことが出來る。|斯る三層樓が一周して中央に中庭が出來、その中庭のまん中に四角な一大樓閣が聳江てゐる。それが廟の本堂ともいふべき妙高莊嚴殿である。寫眞の左がそれを示し、右は周圍の三層樓の一部だ。(印畫の複製を禁ず)
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妙高莊嚴殿 (熱河 承德)
大紅臺內の中心に立つ妙高莊嚴殿は、三層の上に二重の大屋根をのせてゐる。|この殿は普陀宗乘之廟の萬法歸一殿に近似した平面及び外觀を呈し、同し金銅の燦然たる瓦を茸いてゐるが、しかし屋根の頃上にのせた飾りや、降り棟にのせた龍など彫刻類は全く傾向を異にして、彼の甚だ幾何學的直線形であつたのに、これは自由奔放を極め大膽奇拔な手法を驅使した點を特異とする。(印畫の複製を禁ず)
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都綱上の佛堂 (熱河 承德)
都綱(大紅臺)周壁に沿う三層樓の屋上四隅には夫々小佛堂を建て、中に各々異なつた異樣の佛像を祀る。堂の外觀はすべて同じく三楹で屋根に黃、綠瑠璃瓦を葺き、屋頃に鹿と寶珠とをのせてゐる。寫眞はその東北隅にあるものだ。|斯る小佛堂は普陀宗乘之廟になく、全くこの廟のみ認められる。三層樓の屋上を遊歩し乍ら、金色屋根を眼近かに見、且つ繪のやうな景色を賞することが出來るのは此の廟のみだ。(印畫の複製を禁ず)
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吉祥法喜廟 (熱河 承德)
廟の紅臺は、中央の一廓が妙高莊嚴殿を中心とするもの、東に續く一廓が御座樓で其の北に生歡喜心殿が建つ。そして中央一廓の西北角に續き、生歡喜心殿と全く對照の置位にあるのが此の吉祥法喜殿である。|この殿の前方にも小紅臺があり、周壁に沿うて一層の建築をめぐらし、階段によつて殿に上ることになつてゐたが、今大破して姿を沒した。この殿も亦金銅の燦然たる瓦を葺くが、內部は全く荒廢してゐる。(印畫の複製を禁ず)
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琉璃佛塔 (熱河 承德)
須彌福壽廟の最も奥にあるのが、八角の瑠璃瓦製佛塔だ 塔は下方に八角の亭があり、亭の屋上に七層をのせた形であるが、屋上に勾欄までもめぐらせてゐるにも拘らず、屋上へは上ることが出來ない。塔の頂は今缺失して了つたが、勿論一種の相輪があつたことは疑ひない。一階の壁面には夫々種な佛像の浄彫がある。この一階に亭形を附けた外觀は、避暑山莊(離宮)内の永祐寺舎利塔の昔の姿を偲ばせるものだ。(印畫の複製を禁ず)
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武功坊 (奉天・故宮)
奉天城內の中央に位する淸朝時代の宮殿を今では故宮と呼んでゐる。故宮の前の大街には、東西に牌樓が建てられ、俗に東華樓、西華樓と言つてゐるが、古くからの名は東を文德坊、西を武功坊と言つた。中央の額に崇德二年に建てたと書いてあるが、それは乾隆年間に書かれたもので、必しも正確とは言ひ難く、崇德元年(一六三六)には旣に存在してゐたと考へられてゐる。尤も現在の建築は乾隆年間頃の面影を傳へてゐるらしい。(印畫の複製を禁ず)
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幢經尼羅陀 (奉天・故宮)
故宮前の東の牌樓、文德坊外に高さ九尺位の八角石柱に屋根をのせた形のものが立つてゐる。俗に十面石と呼ぶが實は八面とすべきだ。今は文字が磨滅して全文を續むことは出來ないが、尊勝陀羅尼經が刻んであることは疑ひがない、嘗ては唐開元三年…瀋州…とあるのが讀めたと言はれ、從つて是は八世紀初頭に於ける唐代の作と考へられてゐる。尤も開元ではなくて開泰であり、遼の代作ではないかといふ疑問もある。(印畫の複製を禁ず)
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大政殿 (奉天・故宮)
故宮は三大區劃に分けて考へるのが便利である。中央の一區は今の故宮博物院、東の一區が此の寫眞の大政殿を中心とし、前方に所謂十王碑を配したもの、西の一區は四庫全書で名高い文溯閣を中心としたのもである。|大政殿は嘗て篤恭殿と稱し、故宮の中でも最も早く建てられた。十王亭は正しくは言へば左右翼王亭と八旗亭とである。何れも淸朝初期の軍政を行つたところであり、特に大政殿では太宗、世祖の卽位式が擧げられた。(印畫の複製を禁ず)
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崇政殿 (奉天・故宮)
故宮の中央一廓は大街より北に、先づ大淸門、次に東西に飛龍閣翔鳳閣、その北に崇政殿があり、殿內には玉座が昔ながらの姿を傳へてゐる。ここは謁見や宴を賜ふ所である太宗帝崩御の時には其の梓宮が暫く安置してあつた。|殿の前方にある月臺の東に日時計(卽ち日規)西に標準外を置いた家形(即ち嘉量)を配してゐる。これ等は共に乾隆十三年に附け加へたものである。(印畫の複製を禁ず)
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鳳凰樓 (奉天・故宮)
崇政殿の北は小高くなつてゐるが、その入口に當たる所に立つてゐるのが此の三層樓、卽ち鳳凰樓である。鳳凰樓の一階は門に過ぎないが、二階以上は立派な室であり、淸朝の時には種々な寶物が藏してあつた。張作霖の軍隊が故宮を兵營としてゐた時にはここが本部になつて隊長が居た。今は一物もない塵だらけの空室である。|鳳凰樓の創建年代は不明であるが、現建築には乾隆年間らしい點が多い。(印畫の複製を禁ず)
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雪の神杆 (奉天・故宮)
鳳凰樓の東北隅に近く、石の臺上に一本の棒が立てられてある。これは淸朝で滿洲固有の宗敎ともいふべき薩滿(サマン)敎の祭儀を行ひ、天を祭る時に用ゐる神杆である。神杆は滿洲古語でソモと言ひ、淸宮室の場合には楠の木で造ることになつてゐた。|上方に圓斗があるが、それには犧牲の肉を入れて鴉に食はせたといひ、斗上の尖つた部分は普通もつと長くて、それに豕の頸骨を突き差してあつた。(印畫の複製を禁ず)
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淸寧宮 (奉天・故宮)
淸寧宮は鳳凰樓の奧にあり、故宮の中央區の中で最も奧まつた高い所に位し、且つ最も重要な皇帝皇后の御住居所であつた。そして故宮の中では先づ最初に建てられたものであるらしい。出入口が中央ではなく東に偏して設けられ、內部は小室に分れず、大きな廣間の三方に炕がめぐつてゐるといふ風に、甚だ特異な點が多いのは、恐らく滿洲固有の住家の風を採り入れたからであらうと思はれる。出入口の眞南に神杆が立てられてゐる。(印畫の複製を禁ず)
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淸初の甲胄 (奉天・故宮)
淸寧宮の前方東西には四つの宮殿があり、今何れも陳列室に使はれてゐるが、或る一宮には武器武具のみ陳列してある。中でも特色の多い鐵兜と鐵の鎻鎧とは人目をひく。|鐵兜は近頃流行ものだが、同時に日本の上古の兜や滿洲では渤海時代の鐵兜などが是に類し、鎻鎧は勿論日本にもあつた。鐵は防備に必要な武裝のために好適だが、滿洲人は更に邪惡な魔神を追ひ拂ふものとして鐵を重視したのであつた。(印畫の複製を禁ず)
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小佛亭 (奉天・故宮)
清寧宮の陳列品中に六角の小さな厨子があり、それに次のやうな文字が刻まれてゐる。|乾隆四十八年正月二十日|欽命章嘉胡土克圖認看供奉利白玉成造同侍|觀世音普薩|とあり、これが觀音樣を祀つたものであることが知られる。|その前に置かれた奇妙な形のものは、小腰鈴又は手鈴とも言ひ、清寧宮で行ふ薩滿教の儀式の時鳴らした道具である。(印畫の複製を禁ず)
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祭儀の樂器 (奉天・故宮)
清寧宮で行なつた薩滿教の儀式にも種々あり、その祭儀に應じて祭器も異なつたものが使はれた。每日行はれる儀にも朝祭、夕祭、背燈祭とあった。|ここに示す樂器はその中の朝祭に用ゐたものらしい。琵琶は普通四弦、蛇皮線は三弦であつた。この種の樂器は日本の琵琶や三味線によく似て居り、日本のそれも結局支那から流れ込んだのを改良したものであることがわかる。
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淺春の大凌河 (錦州省義縣)
錦縣から熱河方面への途次、右方の車窓から高塔の聳江た古城が見江る。それが義縣々城だ。更らに北進すれば間もなく大きな河岸に沿うて列車は走る。それが大凌河だ。|義縣城外、西北二十滿洲里、大凌河に望む巖壁を掘鑿して造つた佛窟があり、萬佛堂と呼ぶ。巖壁上に立つ圓筒形の奇妙な白色塔はその所在を示す標識だ。列車の窓からも注意すれば、遙か對岸に望見出來る筈だ。(印畫の複製を禁ず)
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萬佛洞展望 (錦州省義縣)
萬佛堂は今から千四百年餘年前、北魏時代に造られた滿洲最古の佛敎藝術品だ。|大別すれば東西二群に別れ白色塔下にあるのが東群、西群は西端にある一大露出佛から東方崖上の墻壁に小門を置いてゐる部分の窟までに及び、その他に僧の住居が東端、西端に加へられてゐる。大凌河の河水のために年々河岸を浸蝕されて、窟の前方が大破し、佛像も破損甚だしい。特に東群は全く昔の面影が消失してゐる。(印畫の複製を禁ず)
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西の第一窟 (錦州省義縣)
西群の各窟を東から數へて第一、二、三、四、五、六窟とする。中でも第一窟は最も規模が大きく、且つ完存してゐる。|方約三十尺の洞窟の中央に、約十尺四方の部分を掘り殘し、すべての表面に大小無數の彫刻を施す。写真はその中央方柱の彫刻だ。下方の中央に坐佛像、左右に立像があるが、近頃の補修で見るに足らず、坐佛像の背光以上の部分、四隅の龍の巻きついた千葉蓮華柱などは、全て古態をよく殘してゐる。(印畫の複製を禁ず)
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飛天と天蓋 (錦州省義縣)
西方第一窟に於ける東、西、北の三壁面上部には中央に天蓋、左右に橫になつて飛ぶ天人の姿を刻み出す寫眞は最も古調を傳へてゐる部分で、左方に天人を示すが、旣に足の方は消江てゐる。尤もこの天人と雖も後世の補修が加へられてはゐるらしい。|天人と天蓋と、更にその下方の佛像を見れば、これ等は北魏時代よりも稍々後の作に屬するもののやうである。(印畫の複製を禁ず)
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天人の一姿態 (錦州省義縣)
この天人も亦同じ場所にあるが、只壁の位置が違つてゐるのと、近世の補修が餘りに加へらたために、全く異なつた調子の天人の姿になつて了つたのだ。|それでも仔細に見るならば、大體の形態は依然として古いものに依つて居り尚ほ昔を偲ぶよすがには十分なる。新、古の比較上參考になると思つたので、敢へて同じようなものを二つ紹介して見た所以だ。(印畫の複製を禁ず)
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佛像の列 (錦州省義縣)
同じ西の第一窟には中央の方柱のみでなく、東、西、北の三壁面の下方に夫々三つ宛の龕を設けて坐佛像を入れ、その中間每に脇師立像、室の隅にも亦四天王像を配してゐるが大半は近頃の補修が加へられて、一顧の價値もなくなり、痛惜に堪へぬ思ひがする。ところが西壁だけには非常に破損し乍らも尙ほ古態のままが殘されてゐるのは嬉しい。寫眞が示すやうに、これ等の佛も北魏より多少年代が降るだらう。(印畫の複製を禁ず)
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西の第四窟 (錦州省義縣)
西の第二、三、四窟は今連續して、トンネルのやうになつてゐるが、元來は夫々別であつて南に入り口があつたらしい。|第四窟の下方中央に大きな坐佛像の繪がある所は、元來南からの入口であつたのを、漆喰を塗りたてて壁の一部にしたものと見られる。勿論近世の改作だ。しかし中央上方に見江る交脚の彌勒像を始め小佛像は、近世の着彩ではあるが、すべて北魏時代の面影を十分存してゐる。(印畫の複製を禁ず)
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北魏太和の碑
西方第五窟は前方が大破して洞窟でなくなつてゐる。しかし天井の一部、壁の残存部に古い彫刻を僅か乍らも示し、更らに北魏太和二十三年(西紀四九九)の碑の一部を残してゐる。写真の右下に見江るのが其れだ。碑は壁の一部から刻み出したもので、別の石碑をはめ込んだのではない。|碑の左上方にある彫刻、別して上方の屋蓋附近を示すものは、北魏の建築的特徴を明かに発揮してゐる。(印画の複製を禁ず)
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龍と千葉蓮華 (錦州省義縣)
同じ西方第五窟の西壁には、大坐佛像があつた跡の上方に小佛のついた背光だけを殘し、その右に蟠龍の巻きついた千葉蓮華を臺として小佛殿をのせた彫刻がある。その蟠龍の姿態、合掌せる佛像など、すべて北魏時代の面影を示すに十分だ。|ここから更に西へ洞門を入れば、そこは僧の住居となつてゐる。その第五窟と僧房との中間にある南方の崖が、第六窟に當る。(印畫の複製を禁ず)
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大露出佛 (錦州省義縣)
第六窟の前方は全て崩壞し去つて、今は後壁にあつたらしい大坐像が露出してゐる。而も此の露佛も亦大半破壞したものらしく、臺座を始め、全身が近世の修繕を加へられて、更らに古い面影が認められない。背光も亦さうである。|僅かに背光の外方にある小佛像、特に右方の立像だけは多少古い姿を傳へてゐるかのやうだ。(印畫の複製を禁ず)
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城門長閑 (錦州省北鎭)
北鎭は奉山線溝幇子驛から北へ七邦里、バスの便がある。北鎭の名は民國になつて改稱されたもので、それ以前は廣寧と呼んだ。|滿洲事變の直後、十一月二十六日から七晝夜、匪賊數萬に圍まれて籠城を續け、辛じて皇軍の出動によつて助けられたといふやうな歷史もあり、嘗ては可なり穩やかならぬ土地であつたが、今は縣內から匪賊の姿を沒し誠に平和で長閑な所となつてゐる。(印畫の複製を禁ず)
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雙塔の立つ城 (錦州省北鎭)
北鎭城は滿洲第二といふ大さだ。東北隅に立つ二つの大佛塔は、北鎭の存在を高らかに誇るシンボルと言つてよい。塔は共に崇興寺境內にあるが、寺は旣に衰へ雙塔によつて昔の宏壯さを偲ばしめるのみだ。|地味瘦せて物質豐かでない貧縣であるから城內の民家も平房ばかり多いのが眼につく。(印畫の複製を禁ず)
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明代の牌坊 (錦州省北鎭)
大南門を入つて北へ一直線に進めば、街路幅いつぱいに石造の大牌坊が立つてゐる。|中央の屋根下にある堅額に世爵と刻み、その下には橫に天朝誥券と大文字が刻まれ、更に下方には鎭守遼東總兵官太保兼太子太保寗遠伯李成梁などとある。即ち民の萬曆年間に於ける遼東の名將李成梁が關係してゐる牌坊で、約三百三四十年前のものであり、かの興城の石牌坊と共に滿洲では珍しい實例だ。(印畫の複製を禁ず)
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北鎭鼓樓 (錦州省北鎭)
石牌坊の少し北に新裝の鼓樓が立つ。嘗て鐘樓も城內にあつたといふが今はない。この種の街路の中央に立つ建築物は、交通の發達を阻害する關係から、何時かは廢止の運命にある筈だが、北鎭では未だ斯る點に痛痒を感じないのであらうか、近頃になつて尙ほ一層力を入れて彩色を塗りたてて飾裝してゐる。それほど此處は田舍らしい平和鄕である。(印畫の複製を禁ず)
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傳說の觀音堂 (錦州省北鎭)
皷樓の東方に觀音堂がある。道に變妙な貌の石獅子が並んでゐるので人眼をひく。極小さな寺だが、それでも民の嘉靖三十六年と萬曆四十一年の石碑があるから、十六世紀の半過かれああつた古刹だ。|山門の入口にある觀音堂とした三字は、唐の尉遲敬德が書いたといふ傳說がある。敬德は元来武将であるが、唐太宗の高句麗討伐の劇や軍談の上で一躍人氣者になつて傳說が至る所に廣まつたのだ。(印畫の複製を禁ず)
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石群像臺座 (錦州省北鎭)
城內東北隅、雙塔の北に小さく建つ崇興寺の境內に此の名作を見出したのは大きな歡喜だつた。これこそ在りし日の大崇興寺佛殿前に立つた塔籠か何かの臺座だつたに相違ないもとより屋根と白色アーチの部分は近世の附加物に過ぎまい。|六角の六隅を支承する男像は漢人種でなささうだ。金代を下らぬ優秀な彫刻で、恐らく遼代に屬するものであらう。(印畫の複製を禁ず)
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毘盧庵 (錦州省北鎭)
雙塔の西に接して建つ尼寺を毘盧庵といひ正殿、前殿、門、僧房とある小寺さなだ。寫眞は正殿だ。淸末に出來たものらしい。|一風變わつて面白いのは屋根で、兩端を瓦葺きにしてゐるのに、中央部に藁葺きの高屋根をかぶせてゐる。斯る屋根はこの尼寺のみでなく、北鎭城内では他の寺でも用ゐたのがあり、此所の一特殊傾向のやうに思はれた。(印畫の複製を禁ず)
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保安寺石屛 (錦州省北鎭)
保安寺は城內西北にある小寺で、明代の創建らしいが、現在の建築は新しい。山門を入つたところに此の石屛が立つ。この種の石屛を義縣志では遼石屛としてゐるが、遼代と斷言出來るほどの資料はあるまい。恐らく明末を下らないものではなからうか。唯一無二ではないがとにかく可なり珍らしい石作品である(印畫の複製を禁ず)
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東嶽仁聖殿 (錦州省北鎭)
北鎭城外、東方三里の所に南へ突き出た丘陵があり、その前方に玉皇廟、後方に東嶽廟卽ち天齊廟がある。日本人が俗に地獄極樂などと呼ぶのは天齊廟のことだ。|この廟は嘗て可なり大規模だつたらしいが大半頽廢して、今は仁聖殿のみ完全に殘り、木の梁を上部に使つてゐないので無梁殿と俗に言はれる。明の弘治七年(西紀一四九四)に建てられたままを未だに傳へてゐる。(印畫の複製を禁ず)
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北鎭の八塔 (錦州省北鎭)
城外東方三里の丘陵上にある玉皇廟の背後西方に八塔が群立してゐる。遼金系佛塔に類する五層塔が五、ラマ塔形が三、何れも小さなもので高いものでも十二三尺に過ぎない。南面に石刻の銘があるが、石質が軟かい爲に剝落して大半讀めない。一二の讀めるものを見るのに僧侶の墓であつた。(印畫の複製を禁ず)
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北鎭廟全景 (錦州省北鎭縣)
北鎭廟は北鎭(以前の廣寗)縣城の西、約五滿洲里の丘陵上にある。規模の大きい點では滿洲に類の少ないもので廟の東には行宮(シンクン)までも附屬してゐる。周圍に民家一軒もなく、樹木も少ない禿げ山の上にあるのだから、益々壮大に見江る。尤も承德の喇嘛廟のやうな立體的な點が缺けてゐるのは些か難だ。(印畫の複製を禁ず)
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碑樓と醫巫閭山 (北鎭廟)
廟前の大月臺上に立てば、西方に醫巫閭山が高く聳江て長く連なつてゐるのは、雄大そのものだ。南には廣く平野が開け、東には北鎭縣城を俯瞰し更に東方丘陵上の玉皇廟や東嶽廟が遠く霞んで見江る。斯る風光に優れてゐるのも此の廟の一特徴としてよい。|石造の牌樓は北鎮城内のそれとは異なつてまた一種の味ひがある。傍の石獅の滑稽なトポけた顏は捨て難い。(印畫の複製を禁ず)
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廟大門 (北鎭廟)
廟は丘陵の斜面を利用してゐるので、南から北へ進むに從つて次第に建築が高い地盤に置かれるわけだが、それを數區に分けて所々に大きな石階段を配置してゐる。その第一の石階が大門前にある。石階の左右から門の立つ高い壇(月台)の端へかけて、一面に石の勾欄が設けられた立體的な美しさは、前の寫真によく出てゐる。門の入口には北鎮廟と刻んだ石額がはめてある。(印畫の複製を禁ず)
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樹間の碑亭 (北鎭廟)
廟門を入れば左右に朝房があり、北に神馬門がある。この門前にある高い石階を上つて、神馬門の北へ出れば、そこに四つの碑亭が立つ。その中の東端が六角亭、他は四角だ。東の二亭が康熙、次が雍正、西端が乾隆の石碑を中に立ててゐる、卽ち乾隆帝に至つて此處も完成したことが知られる。(印畫の複製を禁ず)
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御香殿 (北鎭廟)
碑亭の北から廟の中心部だけが急に高くなり、南の中央に二つの石階がつく。この高い壇上に南から御香殿、大殿、更衣殿、內香殿寢宮の大小五つの殿が一直線に北へ北へと並ぶ。その中でも南端の御香殿前には、乾隆帝御筆の石碑が十四ほど二列になつて並んでゐるのは、乾隆帝の濃厚な趣味を示すものだ。此處は山神に香を進獻する所。(印畫の複製を禁ず)
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山之神 (北鎭廟)
御香殿の北に大殿があり、内に祀るのが此の山神の像だ。山神とは言うまでもなく北鎭醫巫閭山の神である。唯一人、大きく造つてあるが像は甚だ新しい。|大殿の内壁にも東西各九人宛の肖像が畫かれてあるが、これも亦新しくて味ひがない。しかし山神をこんな風に祀つてゐるところは滿洲では他に見られないのだから、新しくても興味は十分持てる。(印畫の複製を禁ず)
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廟の構成美 (北鎭廟)
鼓樓の樓上から廟の中心區を俯瞰した美しさだ。右下の屋根は碑亭。稍遠くに並列する諸殿は、御香殿、大殿、內香殿、寢宮の順である。中でも大殿と寢宮とは靑い瑠璃瓦を葺き、廟中での大建築だ。勾欄をめぐらした高い壇上に諸殿を置いたのは明代からで、淸代にはそれを重修したに過ぎない。(印畫の複製を禁ず)
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寢宮の二神 (北鎭廟)
寢宮は廟の最も奧にある。寢とはネルことではなくて、正といふ意味であり、從つて正式の居室と思へばよい。男女二柱の神を祀るのが支那系宗敎ではきまりであるらしく、神々も人間の世界と同じやうに生活をするのであらう。單に山を祀つたのが、山神といふ一つの人格視されて人間と同じ偶像にまでなることろに、特殊な宗敎思想の展開を窺ふべきだ。(印畫の複製を禁ず)
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補天石 (北鎭廟)
廟の西北隅に近く自然の大巨石がある。南面を平滑にして、表面に補天石とか翠雲屏とか刻み、また別の石に詩を刻んで巨石に嵌めこむなど、種々な工作がしてあるが、旣に文字の模糊たるものが多い。尤も我々には文字が示すほどの雄大さを感ぜず、實物を見て小さいのに驚いた位だ。石の東に覽秀亭といふ資格亭がある。(印畫の複製を禁ず)
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棋盤山 (北鎭廟)
廟の東の行宮の北に補天石よりも少し大きな自然岩があり、岩を利用して棋盤を設けて棋盤山の名がつけられた。|乾隆時代には上に草葺の亭があつた筈だが今では板葺の亭で面白味はまるでない。四角な瓦葺きが會仙亭。この種の取り扱ひは、日本の築山增庭に遠く及ばない粗雜なものだ。(印畫の複製を禁ず)
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黃塵の義縣 (錦州省義縣)
四月五月の兩月は滿洲西半部が黄塵で蔽はれる。眼をあけて正視することが出來ない。この寫眞も斯る惡天候の撮影だ。|義縣は遲くとも遼代の宜州以來開けた所であるが、奉國寺と嘉福寺塔との外には、古さを示すものがない、見渡す限り淸朝以來の新しい街である。ここも亦平房が多くて、瓦葺の屋根は極めて少ない。(印畫の複製を禁ず)
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義縣の鼓樓 (錦州省義縣)
義縣城内にも中央の十字大街に鼓樓が建つ遼西都市には必ずと言つてよい位、鼓樓がある。俗に鼓樓と呼ぶが單に太鼓を置くところではなくて、ここが神々を祭る廟であることを注意すべきである。|都市の中心區の十字大街に廟を置くのは、古代支那のみでなく、古代印度をはじめ多くの古文化に認める所で、文化史上甚だ興味ある問題だ。(印畫の複製を禁ず)
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大奉國寺伽藍 (錦州省義縣)
大奉國寺は遼の開泰初年即卽ち今から九百二十餘年前の創建といはれる。元末頃までは非常に宏大な伽藍であつたらしいが、その後大部分が廢滅して今では最後方に大雄殿が一棟殘つてゐるばかりで、大雄殿前の無量壽殿や山門は清代の粗末な建築に過ぎない。|大雄殿は滿洲に比類ない大建築で、且つ木造最古の建築と言つてよい。(印畫の複製を禁ず)
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大佛莊嚴 (義縣大奉國寺)
大雄殿內には大佛像が七體、佛壇の上に並んでゐるので、奉國寺を俗に大佛寺と呼ぶ この殿は元末までは七佛殿と言はれてゐた。|佛像は後世金色を塗り加へたり、補修を所々に施したので、一見甚だ粗雜なもののやうであるが、遼代の作がとにかく今迄傳へられたものらしい。背光の先端が天井の上まで及んでゐるのは、天井を後世附け加へた結果である。(印畫の複製を禁ず)
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金代の石碑 (義縣大奉國寺)
これだけ見事な彫刻のある石碑は他にないだらう。碑文に見江るやうに明昌三年、即ち七百四十餘年前の作であるが、此の碑文の作者は、明昌三年よりも五十年餘り以前に宋から金へ來てゐたのであるから、碑文の内容は約八百年許り前の事を示してゐる。|石碑の幅よりも彫刻の部分(螭首)の方が幅が廣い天が一特色である。(印畫の複製を禁ず)
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朝陽南門外 (錦州省朝陽)
朝陽のシンボルは平たい泥屋根の中に、一際高くそび江て立つ二つの塔だ。餘り大きな町ではなく、城壁も泥築の粗末さで、東西南北に各一門を開く。門上の廟が見張所に利用されてゐるので、些か物々しさを感ずる。|寫眞の城門に近いのは南塔で、その右に薄く見江るのが北塔だ。(印畫の複製を禁ず)
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朝陽の碑坊 (錦州省朝陽)
朝陽城内の道は折れ曲つてはゐるが、とにかく城門を結ぶ十字街が最も見るべき大街である。その中の南北大街にこの牌坊が二棟立つてゐる。極く簡素な牌坊であるが、それによつて朝陽の街路が特色づけられてゐることは認めてよからう。交通頻繁な今になつては牌坊の幅に少し狭さを感ずる。やがて滅ぶべきものであらう。(印畫の複製を禁ず)
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朝陽北塔 (錦州省)
朝陽の二塔の中、南塔には佛像などの彫刻が缺失してゐるが、北塔には西面共に現存してゐるのは嬉しい。しかしこの彫刻には金代頃に可なり手を加へたものか、遼代とは思へない新さがあり、魅力を失つてゐる。|第二層以上の軒の出の取り扱ひは見事であり、南塔以上に古いことを示す。恐らく遼代でも早い頃の作であらう。(印畫の複製を禁ず)
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佑順寺 (錦州省朝陽)
朝陽城内の中央部に宏大な地域を占めたラマ寺がある。それが佑順寺だ。すべて一階だけを使ふ建築だから、承徳の寺のやうな立體的の美觀は伴はないが、殿内には例のグロテスクな諸像があつて、相當な寺である。|寫眞は讀經を行ふ殿、右に少し見江るのが大殿で、この二棟が寺の中心をなす大建築である。(印畫の複製を禁ず)
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佑順寺の塔 (錦州省朝陽)
佑順寺の讀經殿の前方東西に、それぞれ一基のラマ塔が置かれてゐる。下方の基壇が幅三米だから、以て小さなものであることが知られよう。彫刻も粗雜で、唐草模樣は朱色で描いただけに止る。|寺は康熙四十六年に出來上つたものといふから、この塔も康熙乾隆頃の作であらう。(印畫の複製を禁ず)
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石の碑樓 (奉天昭陵)
昭陵(又は北陵)の正面は先づ見事な石作りの牌樓から始まる。この牌樓は嘉慶四年に計畫され、遼陽附近に產する稍々靑海のある石と義州附近の白味の多い石とを呈出したところ、皇帝は前者を採用されたので、愈々翌五年に着手、六年(西紀一八〇一)に完成した。だから昭陵では最を新しひ建築と言つてよい。(印畫の複製を禁ず)
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拱門に浮ぶ (奉天昭陵)
牌樓の北に三つのアーチ(拱)を並べた紅壁の門は、前三門、正紅門などと呼ばれて、昭陵一廓の正門である。寫眞はその中央のアーチから內部を望んだところ、中央に浮ぶのが牌樓、その後に屋根をのぞかせてゐるのが隆恩門、正に一幅の畵だ。(印畫の複製を禁ず)
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翼壁の龍 (奉天昭陵)
前三門の左右から紅色壁の牆が東西に走り次いで北折して矩形の一廓を圍む。この牆を紅牆紅城などと呼ぶ。門は南ばかりでなく西と東とにあり、これを東紅門、西紅門といふ。以上の前三門、東西紅門の三つの門の左右には翼壁(又は照壁といつてよからう)があり、紅壁の中央に瑠璃瓦版を以てした一大龍の飛躍像が飾られてゐる。(印畫の複製を禁ず)
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石獸群 (奉天昭陵)
前三門を入つて北へ進めば、左右に石獸像が並ぶ。南から麒麟、不明の獸、獅子、馬、駱駝、象の順で各一對宛が相ひ對してゐる。中でも馬は太宗帝愛用の大白、小白といふ馬に似せたものと傳へられる。これ等は順治七年(西紀一六五〇)四月に立てしめたもので東陵の石獸との間には若干の相違が見える。中央に建つのは碑樓だ。(印畫の複製を禁ず)
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石望柱と隆恩門 (奉天昭陵)
右に影を覗かせてゐるのが碑樓、高い三層樓は隆恩門上に立つので、単に隆恩門とも或は隆恩樓ともいふ。左の石柱が所謂望柱だ。|碑樓の中には大石碑が立つ。それは太宗皇帝一代の功績を述べた康煕帝撰文が滿、漢兩文字で書かれてゐる。隆恩樓には今何にも置かれてゐない。恐らく陵の威嚴を示すための建築だらう。(印畫の複製を禁ず)
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方城前部 (奉天昭陵)
隆恩門は煉瓦造の矩形の城壁の南に開いた門だ。この城壁を方城と呼ぶ。城壁上を一週することが出來、四隅には角樓、南の中央に隆恩樓、北の中央に明樓を置く。寫眞は方城の前方なる隆恩樓の背面と西南の角樓と西配樓とを示す。(印畫の複製を禁ず)
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昭陵の核心 (奉天)
隆恩門を進めば東西に配樓、配殿があり、北の中央に隆恩殿がある。これは昭陵の中で第一の立派な建築だ。中に厨子があり、その中に太宗皇帝皇后の位牌をまつる。卽ち此處が皇帝皇后の靈をまつる儀式殿であり、儀式上では核心をなす所と言つてよい。(印畫の複製を禁ず)
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隆恩殿と明樓 (奉天昭陵)
隆恩殿は前方の月臺が廣く、石彫刻の勾欄をめぐらし、單層ではあるが最も技巧を盡した建築だ。殿の背後に石柱門なるものがありその北に石五柱と言つて石作の供物臺が置かれる。方城の北部中央にも亦アーチを開け、アーチの上方に明樓が立つ。(印畫の複製を禁ず)
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明樓 (奉天昭陵)
明樓は外觀二層樓、內部一層、紅壁黃瓦、昭陵最北の建築で、ここで全體の締めくくりをしてゐる。中央に石作の大きな位牌が立てられ、ここから北方にある墳丘に向つて拜むやうになつてゐる。(印畫の複製を禁ず)
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賓頂 (奉天昭陵)
寶頂とは墳丘のことだ。この下方に太宗皇帝皇后の梓宮(棺)が尊藏されてゐる。毎年淸明節に寶頂上に土を十三擔ほど加へることに規定され、後には更に一擔を増加した。それほど保存には注意してゐるのだ。頂上にあるのは神楡だ。(印畫の複製を禁ず)
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法藏寺の塔 (北平)
北平到着の直前、列車が外城内に入るや左、方の畑に一高塔が見へる。それが此の塔だが今では塔が附屬してゐた法藏寺の建築そのものは消滅し去つた。寺は金の大定年間に建てて彌陀寺と言つたが、明の景泰二年(西紀一四五一)重修して法藏寺と改名したといふ。故に塔は後までも彌陀塔と呼んだ。久しく修補しないので見る影もなくなつてゐるのは惜しい(印畫の複製を禁ず)
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勅建の回敎寺 (北平)
北平には勅建の回敎(淸眞)寺と称するものは幾つもあり、東四牌樓の寺は著名であるが、ここに示すのは牛街、の寺だ。恐らく北平第一の見事な大回敎寺だらう。寺の形式も變つて居り、早く明代頃から旣にここに回敎寺が開かれたらしい證據もあり、開基の古い點でも稀らしいと言へよう。(印畫の複製を禁ず)
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囘敎徒の一面 (北平)
前揭の清眞寺に於けるスナツプだ。回敎徒は常に身體の一部又は全部を洗淨沐浴するのを以て戒律としてゐる。そのために寺には湯の世話をする係の人を設ける必要がある。寫眞はその世話人と沐浴用の湯桶と、湯沸し場の一隅とを示す。(印畫の複製を禁ず)
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八里庄の塔 (北平)
北平の西郊、八里の地にある八里庄の畑の中に一大高塔が聳へてゐる。今では寺らしい面影さへなくなつたが、嘗ては慈壽寺と呼ぶ大寺の中に立ち、永安壽塔と言はれた。明の萬曆四年(西紀一五七六)慈聖皇太后が建てしめられた寺で、塔は外城の西に立つ天寧寺塔を摸倣したのであつた。(印畫の複製を禁ず)
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永安壽塔の詳細 (北平)
天寧寺の塔は俗に隋代の作と傳へられてゐる が現在の塔が遼代のものであることは動かぬそれを模して建てたので、明末の作であるにも拘らず、一見遼式の佛塔であるが、流石時代の風潮はあざむかれず、彫刻類が弱々しくて複雜であり、遼代の雄渾な姿が認めらない。それは天寧寺塔この比較で明瞭になる。(印畫の複製を禁ず)
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觀音菩薩像碑 (北平)
永安壽塔の傍に此の牌が立つ。慈聖皇太后が慈壽寺を建てるや。その後殿には九蓮菩薩を奉安した。屢々夢で菩薩が出現し、太后に經を授け、それを九蓮經と言つたが、覺めても忘れず記憶してゐたので、遂に大藏經に加へた程だつた。そこで像をつくつて祀つたといふ。或はまた太后は菩薩の化身だと言つた僧もあるとやら。(印畫の複製を禁ず)
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妙應寺白塔 (北平)
恐らく支那第一の大喇嘛塔だらう。妙應寺は俗に白塔寺の名が通り、全く一大白色喇嘛塔が寺そのものを代表してゐる。|塔は遼の壽隆二年尾(西紀一〇九六)に建てたといふが、その後元の至元八年(一二七一)に是をあばいてゐるから、現在のは元代の塔の形式である、遼代の塔とは認められない。(印畫の複製を禁ず)
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萬壽山遠望 (北平)
萬壽山は北平郊外最大の景勝地だ。古くは金元以来の勝地だつだが、淸代では乾隆以來離宮が置かれ、英佛聯合軍のために損ぜられたが、西太后が大修築を施し大増築を加へた結果、自然の美を壓倒する人工的美觀のあくどい所に化した。足の向く所、至らぬくまもなく樓閣殿亭塔が建ち、些か食傷を覺えしめる。しかし湖水上から遠望すれば、これ數幅の畫にまさる事萬々。(印畫の複製を禁ず)
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昆明湖俯瞰 (北平)
萬壽山は足に任せて步き廻るのは下の下、むしろ高きに昇つて昆明湖を俯瞰し、見渡す限り遙々と續く水と人工美と丘陵との調和した一大風光を含味するこそ上の上であらう。この光景は實に大きい。漠として而も一つにまとまつてゐる。これ程の大きさは一寸何處でも味へる風光ではない。(印畫の複製を禁ず)
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大正覺寺の塔 (北平)
西直門外にあり、俗に五塔寺の名で有名だが、今では寺がなく五塔のみだ。本月號では此の塔を加へて四種類の塔の形式を紹介したわけだ。中でもこれが最も變り、大きな臺上に五つの塔が立つてゐるのは奇觀である。この形式が西藏から傳へられたが、その出發點は印度ブダガヤの建築にある。明の成化九年(西紀一四七三)の建築だ。(印畫の複製を禁ず)
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北鎭の雙塔 (錦州省北鎭縣)
北鎭は民國以後の名で、以前は廣寧と呼んでゐた。廣寧は金代から始まつた名稱であるが、遼代には顯州と呼ばれてゐたらしい。尤も顯州は今の北鎭の東三十里附近にあるとの推定が一部で採られてゐるが(滿洲歷史地理第二巻二十頁)それは誤解のやうである。|顯州は東丹王の顯陵が建設されると共に始められた遼朝としては由緒深い土地だ。遼代の塔があつても當然である。(印畫の複製を禁ず)
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雙塔側影 (錦州省北鎭縣)
雙塔は城内の東北隅、崇興寺の前庭に立つてゐる。殆んど全く同形同大同高の塔が二つ東西に相ひ對立してゐるのは、滿洲では他處で見られない所、斯く二塔を置く風は唐代以後流行し、我が寧樂時代以後にも出現したのであつた。この雙塔も亦恐らく寺の前方で且つ南門の内側に嘗ては置かれたのであらうが今は昔の伽藍配置が不明になつて了つた。(印畫の複製を禁ず)
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西塔詳細 (北鎭縣崇興寺)
外觀は稀に見る完存さだ。屋頂に至るまで古態を斯くもよく殘してゐるのは珍らしいが項上の相輪には多少缺けた部分(水煙など)があると思ふ。|初層と臺座上部との彫刻類は多くの塔と大同小異ではあつても、大蓮瓣の下の勾欄の組子や、最下の層にある大斗下の蟇股樣彫刻など注目すべきものだ。是等細部の樣式から見て遼代末期の作と考へる。(印畫の複製を禁ず)
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錦州塔 (錦州省錦縣)
錦縣城內に一際高く聳えてゐるのは縣志などに記す錦州塔だ。それを近頃の在住日本人は間違へてラマ塔と呼んで居り、知名の士まで誤りを踏襲してゐるのは困つた現象だ。|塔は大廣濟寺前の廣場に立つ。今の廣濟寺建築は新しく、歷史も明以後で淺いが、もともと塔は最初から廣濟寺の現位置にあつた寺に所屬してゐたと思ふ。これは又非常な大破で第二層以上が完全に不明だ。(印畫の複製を禁ず)
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錦州塔初層 (錦縣大廣濟寺)
初層の彫刻は未だ可なり殘存し出來榮えもよいが、惜いかな臺座は破損が甚しく、加ふるに大同二年(昭和八年)に最下部を修補するに當り、古い彫刻までも除いて古態を失はしめた。|塔は遼の道宗の皇太后(又は皇后)下賜の舍利を藏する爲に建てたと言はれ、嘗てあつた大廣濟寺塔記が淸寧三年(西紀一〇五七)の銘だつたから其頃の創建と見てよい。(印畫の複製を禁ず)
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古塔寺の塔 (錦縣城外)
錦縣城外、城壁の西南隅に近く古塔寺とした極めて粗末な民家風の寺があつて、その敷地の一隅に八角七層の小塔が立つ。八角の一邊僅かに一米三四(初層)九米以上もある錦州塔の大に較ぶべくもない。|これは勿論遼金糸の塔ではなくて可なり後世の作である事は疑ひないが、年代は明瞭を缺ぐ。縣志に明代かとしてゐるが、恐らく明末淸初を遡るものではあるまい。(印畫の複製を禁ず)
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朝陽北塔 (錦州省朝陽縣)
朝陽の城內には南北二塔聳えてゐるが、これは北鎭の雙塔とは異なり、二塔は遠く離れて全く別々に孤立してゐる。共に四角であるのが他に比類を見ない點。|朝陽附近は上古以來支那と遼東とを結ぶ交通の要路だ。唐代には營州と呼び、總管府又は都督府が置かれた。故に北塔は唐代の作と關野博士が主張されたのも無理からぬが、その説には直ちに從ひ難い。(印畫の複製を禁ず)
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北塔詳細 (朝陽南塔)
唐の勢力が營州に及んでゐたのは七世紀だけで、七世紀末には契丹のために退却を餘儀なくされ、爾後は戰亂相ひつぎ、一事回復しても亦直ちに放棄した。故に塔を建てる餘裕が無かつた筈だ。しかし第二層以上の樣式は唐代と思はれる程の古態を存してゐるから遼代佛塔でも比較的早い頃の作であらうか。初層と臺座との彫刻は先づ金代を出でまい。彫刻の圖樣も異例である。(印畫の複製を禁ず)
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朝陽南塔
北塔は周圍を民家が圍んでゐるが、南塔は北側だけが街路に面してゐる。共に十三層、屋頂が不明。北塔に第二層以上が急に幅を縮小するが、これは其の變化が少なく、北塔の上層には縱に龜裂が入つて些か危險さを思はすのに、これには然る不安が少ない。北塔の彫刻は可なり面白いが、これには初層の彫刻が消滅して了つた。近似してゐるやうで若干んの相違が認められる。(印畫の複製を禁ず)
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南塔下層 (朝陽南塔)
初層の彫刻は一片も存しないが、各面に二個の石板をはめ、それに佛塔名を記した點が全く北塔と同樣であるから、多少北塔彫刻圖樣を以て南塔のそれも偲ぶことが出來るかと思ふ。中央の佛がニツチに置かれ、ニツチの上部に大形の雲文を置いた點は、遼代彫刻の名殘らしい。臺座の上端に蓮瓣層を配したのは古態だが、それ以下の彫刻層は後世の補修であらう。本塔は遼代中期以後の作か。(印畫の複製を禁ず)
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貔子窩鹽田 (關東州)
貔子窩鹽田は東西三里に亘り約三千町步關東州第一位の鹽田で、大体其の製鹽方式は自然流下式と稱し、滿潮時の高潮を利用して用水を誘導して居るが高地鹽田はポンプ揚水のもある揚水に風車揚水を使用したのは昔の事で今日では凡て電化されてゐる。(印畫の複製を禁ず)
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洗滌工場 (貔子窩)
化學興業の發達に伴ふ原料鹽の供給は實に關東州鹽としての使命であるが鹽が國際商品であるだけに常に外國鹽と競爭の立場にある日本鹽業は玆に見る所あり即ち外鹽驅逐のた爲めに最も純良なる製品を樹て州内第一の多產地貔子窩を撰定し建設せられた近代式洗滌工場である年產約十萬噸斯くして州鹽業時代の進運と併行し新天地を開拓しつゝある。(印畫の複製を禁ず)
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倉庫の內部 (貔子窩)
貔子窩工場附屬の倉庫內製鹽の推積である工場にて洗滌作業の終つた製品は上部のベルトにて運ばれこゝに積上げられる。これを倉庫の南側の運河に碇泊の戒克に依つて沖待本船に移積せられ輸送せられてゐる。(印畫の複製を禁ず)
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製鹽の山 (普蘭店)
遠望すれば皚々たる白雪の山の如くであるがこれは洗滌工場附屬の鹽堆場に於ける製品の山積で艀に積込の爲め特種の桝を使用して計量してゐる。本鹽は日本内地の食糧用原料として沖待本船に移積し輸送せられる夕陽斜なる頃の荷積作業また變つた景觀である。(印畫の複製を禁ず)
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風鳴島の鹽田 (鳳東山五島)
鳳鳴島新設鹽田四百町步の一部畦畔を走る電柱は各鹽田と聯絡する私設電話遙かに向ふの黑点は、五島附近產額拾萬噸の積取地西中島本船の錨地鳳鳴島の山嵿より俯瞰すれば交流島及鹽田島々の姿複州の山連灣曲の銀波水道には戒克が悠々と辷り見渡す限り山水の畫趣に富んだ眺望のよき景觀である。(印畫の複製を禁ず)
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揚水室 (五島交流島)
普蘭店管内、五島に於ける大日本鹽業會社の交流島鹽田揚水設備の實況である。揚水は天日製鹽上第一の條件であるが從來は主として風車揚水に依つて居つたを同社は最近鹽田の電化を圖り到る處ポンプ揚水に變更せられた、五島は僻遠の土地柄(扌丙)であるから電力の供給がないので、デイゼルエンジンに依る動力揚水三十馬力の威力を以て居る建物は鹽田現塲作業の見張所。(印畫の複製を禁ず)
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鹹水溜 (後三道灣)
天日製鹽上最も忌むべきものは降兩であるが此期に臨み生成したる母液鹹水を處理する爲めに最近築造し鹽田の所々に寫眞の如き鹹水溜を設けてある、中央のコンクリート建は揚水ポンプ小屋である。(印畫の複製を禁ず)
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渡橋 (後三道灣)
後三道灣の南鹽田第一區、二區を連絡する爲めに架橋されてゐる。橋の中央に在るやぐらの如きは戎克船の出入を容易ならしめる爲めの開閉裝置であり左方は海水溜、右方の擴がれるは蒸發池で建築物はポンプ小屋である。(印畫の複製を禁ず)
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連絡航路 (五島交流島)
僻遠の五島への交通路は滿洲國複州よりの陸路と關東州普蘭店からの水路とであるが陸路の方はいろ(いろ)の不便が伴ふので大日本鹽業會社は交流島へ船着塲を設け發動船五島丸を就航せしめ連絡交通の便を計つてゐる。淀泊してゐるは五島丸前方の山影は鳳鳴島、時午前の干潮。(印畫の複製を禁ず)
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鹽の船積 (普蘭店港)
關東州と滿洲國複州とに抱擁せられてゐる新開地普蘭店港後は三道灣鹽田が沿岸地帶であるから大日本鹽業會社では築港計畫を進めてゐる樣であるこの地は水深二十二呎底質泥土で本船の錨地として最も安全である。|寫眞は鹽積取作業で兩側の艀は二十噸前後積み込みの戒克、多き時は數十隻を本船に繫船し其の作業は頗る壯觀である。(印畫の複製を禁ず)
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滿洲の古代色 (新京の町はづれ)
躍進滿洲の大都市といふ大都市は、めまぐるしい發展と共にすべての形態は近代文化の一色に塗りつぶされてゆく。だが一歩郊外に歩を運へば、そこには、今も尚情緒豐かな滿洲の古代色が殘されて居り、素朴な滿人の生活圖譜がくりひろげられてゐる、柳の古木、寺院の屋根、さては道行く人々の姿態にもありのまゝの滿洲色が橫溢してゐるではないか(印畫の複製を禁ず)
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土の住居 (新京郊外)
土の家、土の屋根、土の煙突、そして、それをめぐらす土の塀、滿洲の農民は全く土と共に生活を營んでゐる。まさか泥を食料とはしないが、建築の材料として、畑に施す肥料の媒体物として、時には匪賊の來襲を防ぐ防禦物として彼等の生活には共には土が百パーセントに利用されてゐる。土と共に生活する滿人が泥濘脛を沒するやうな道路などを意としないのも敢へて不思議なことではない。(印畫の複製を禁ず)
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城壁 (金州城門)
滿洲のやゝ大きな都は大概物々しい城壁をもつてめぐらされてゐる。その昔には唯一の防備であつた城壁も今は古代の遺物として生活には何の交渉もない存在となつてゐる。だが斜陽にうつすりと染め出された城壁、眞紅な落日をバツクとして巍然と立つ城壁、さては城門の下を來往する滿人の素朴な姿などを見るとき誰しもそこに捨て難い情緒を感ずるであらう。(印畫の複製を禁ず)
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豚と滿人 (新京郊外にて)
滿人の生活と豚とは實に密接な關係があるだから、どこの部落に行つても先づ目につくものは豚君である。地につくやうに大きな腹を垂れた親豚、生れて間のない可愛い子豚、大小樣々の豚が人家の軒、水溜りの中、畑の隅に食物をあさりながら吞氣さうに遊んでゐる。村から村へ飼主に送られてゆく數匹の豚それはどこかへ賣られて行くのであらう。(印畫の複製を禁ず)
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親豚と子豚 (新京附近)
滿人部落の午後……………………………民家のくづれかけた土塀の下に一匹の親豚が柔らかい陽の光を一ぱいに浴びながら慕ひよる子豚に乳をのませてゐる。本能的な母性愛だと言つてしまへばそれまでだが、ころしたシーンにも何かしら平和な姿を感ずることが出來やう。(印畫の複製を禁ず)
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滿人と驢馬 (新京附近)
豚の外に滿人の生活と密接な關係のあるものに愛すべき驢馬がある。時には荷物を背に時には頰紅つけた村の娘を背に乘せてシヤラン(シヤラン)と鈴の音も淸らかに村から町へ町から村へ、驢馬は常によき村人の道連れである。(印畫の複製を禁ず)
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平和な牧場
柔かい斜陽に照らされた公主嶺の牧場…平和のシンボルのやうな美しい群羊が、背筋に受けた光の波をうねらせながら廣い牧場の中を牧童の打ち振る鞭のまゝに從順に動いてゆく閑寂な牧場には友を呼び合に優しい羊の鳴聲の外に聞える何物もない、平和そのものゝ姿だ。(印畫の複製を禁ず)
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老翁と遜 (ハルビン近郊)
うらゝかな秋の陽を浴びて砂丘の上の柳の蔭に終日孫のお守りをする白髯の老翁、眠むらげな孫達の目に、秋の目の陽炎がチロ(チロ)とたわむれてゐる。これも王道樂土に描かれた一幅の泰平圖譜であらう(印畫の複製を禁ず)
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露人部落の朝 (ハルビンの場末)
晩秋…………………………………………ハルビンの場末に殘された白系露人の貧民窟の朝である。朝の光が傾きかけた窓からさし込む時國を失へる人々の胸にも何かしら一日の希望が芽ぐむのである。かくて彼等には一日のパンを得るための勞苦はあつても、王道樂土なるが故に生活權への迫害もなく、平和なその日(その日)が送られてゆく(印畫の複製を禁ず)
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白系露人の子供 (ハルビンの場末)
白系露人が國を追はれて幾十年、だが彼等の子供は滿洲で生誕し、樂土滿洲にスク(スク)と育つてゆく、一日を何のこだわりもなく友達と樂しく語り合つて居る子供達には國を持たないことなどは何の關係もないものゝ如くである(印畫の複製を禁ず)